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兵庫県 | |||||||||
太平洋戦全国空爆犠牲者慰霊塔 (手柄山) | |||||||||
太平洋戦全國戦災都市空爆死歿者の 霊 此のところに眠る |
建立場所 兵庫県姫路市西延末475 手柄山山頂 趣旨 「現地案内板」 太平洋戦争中の空爆等による犠牲者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念する目的で、昭和31年に建立。塔の高さは26.75m、刀を地中に突き立てた形で不戦の誓いを表現。 「姫路市ホームページ」 空爆その他による犠牲者で、軍人軍属以外の50万9700余の犠牲者を供養 碑文 この塔は先の大戦で空爆の犠牲となられた方々への慰霊に資するため、全国からの浄財により1956年(昭和31年)10月26日に建立されました。 現在は109都市(東京都を含む)が加盟する財団法人 太平洋戦全国空爆 犠牲者慰霊協会が維持管理を行っています。 中央の塔身部は刀を地中に埋めた形で「もう戦争はしない」ということを 表現しており、側柱には建設にかかわった全国戦災都市連盟(113都市加盟) の被災記録などが刻まれています。 竣工以来、毎年10月26日に塔前においてこの浄域に眠る加盟都市50万 9700余柱の犠牲者を追悼する平和祈念式典を挙行しています。 |
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太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔記(背後の壁面)(読みやすいように改行、句読点を挿入した) 太平洋戦争の惨烈なる兵火は、 昭和二十年八月十五日わが日本の無條件降伏によつて終熄した。 その後約七年の間わが國は連合國軍の占領管理のもとに置かれたが、昭和二十七年四月二十八日サンフランシスコ平和條約の發効によつて漸く國家主權を囘復することができた。 これに伴い政府はこの戰爭の犠牲となつて死歿した軍人軍屬に對する敬弔とその遺族に對する慰藉の方途は一應これを定めたが、身に何等の防備なくして無慙なる空爆のなかに敢なく非業の死を遂げた幾多の無辜の市民については、全くこれを顧みるところがなかつた。 ここにおいて、あの曠古未曾有の戰災を蒙り廢墟と化した全國百十三の都市を糾合して結成された全國戰災都市連盟は、昭和二十二年一月その結成以來主力を戰災復興に盡して来たが、たゞに形の上の復興のみに終始する事なく政府の施策にもれた戰災都市空爆死歿者の慰靈をも併せ行うべく、昭和二十七年五月十七日福井市における第十囘定期總會の議に諮り、太平洋戰全國戰災都市空爆死歿者慰靈塔を建立することを決議し、その設置場所を全國戰災都市連盟發祥の地であり、その本部の所在地たる姫路市とすることに満場一致で決定した。 かくてこの企てがひとたび世に發表されるや、果然全國民の間に澎湃として共感を呼びおこし各都市をはじめとして小學校の兒童中學校および高等學校の生徒婦人團體のほかあらゆる階層あらゆる職域から翕然として多額の浄財が寄せられた。 從つてこの慰靈塔はこれら全國民敬弔哀悼の至情の結晶である。これが持つ意義は太平洋戰爭における不幸なる空爆犠牲者の靈が暖かい同胞愛に抱かれて眠る安息の場であり、戰爭の悲惨なる眞相を知らしめる記念塔であり、更に今一つには戰爭というものは生ける者も死せる者もこの悲劇に見舞われ國破れて山河ありとは雖も、かくも荒廢を来しその復興はかくも難行苦行をもたらすものであることを後世に傳え、洋の東西を問わず生きとし生けるもの強く相携えて戰爭防止への最善を致すべきであることを訓えるものであって、この慰靈塔に詣ずる者の聲は世界の隅々へまで平和の祈りの聲として響き傳わることを念じて建立されたものである。 昭和參拾壹年 全國戦災都市連盟 名譽會長 衆議院議員 大野伴睦 會長 姫路市長 石見元秀 副會長 鹿兒島市長 勝目清 同 富山市長 富川保太郎 同 徳山市長 黒神直久 同 布施市長 鈴木義仲 同 長岡市長 内山由藏 支部長 副支部長 |
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横浜市の被爆日、死没者数、罹災人口(賛同行政機関毎にある) 左右の壁面 |
慰霊協会の県・市名を刻印(塔の背面) |
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参照 *総務省 関連ページ 「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」 「太平洋戦全国空爆犠牲者追悼平和祈念式」 *財団法人 「太平洋戦全国空爆犠牲者慰霊協会」 *関連施設 「姫路市平和資料館」 (慰霊塔と同一地:ホームページなし) |
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