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神奈川県 | |||||||||
戦没船員の碑 (観音崎公園) | |||||||||
建立場所 神奈川県横須賀市鴨居 観音崎公園 趣旨 第二次世界大戦や海難事故の犠牲となって海洋で失われた、6万余人の船員の霊を慰め、かつ永遠の平和への願いを込めて昭和46年建立 6万人とは、昭和16年12月8日の開戦から昭和20年8月15日の終戦までの間に亡くなった、軍人以外の船員だそうです。 高さ24mの白磁の大碑僻を中心に、天皇陛下御製碑、皇后陛下御歌碑の他、かっての練習船の錨などを配し、太平洋を望む格好のモニュメントとなっています。 現在「戦没船員の碑」のある付近は大浦堡塁のあった場所です。 堡塁とは、敵艦を射撃する砲台の背後を護るための陸戦用の砲台のことを言います。大浦堡塁には9センチ口径加農砲が2門設置され,鴨居村から観音崎・走水方面に侵入する敵を防ぎ、海岸諸砲台を掩護することを任務としていました。 管理 日本殉職船員顕彰会 戦没船員の碑 |
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【碑文石 献花台 斎場】 【安らかにねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに】 |
【24メートルの大碑壁、群像、錨】 右の大碑石がメインの碑:霊を慰め、平和を祈願 |
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【天皇・皇后両陛下の御製碑】 右から「御製碑、御歌碑、副碑 |
天皇陛下御製 戦没船員の碑 戰日に逝きし船人を 悼む碑の彼方に見ゆる 海平けし (平成4年) (平成四年一月二十日 皇后陛下と行幸の際、お詠みになられた) 皇后陛下御歌 かく濡れて遺族らと祈る 更にさらにひたぬれて 君ら逝き給ひしか 副碑 昭和四十六年五月六日 皇太子同妃両殿下の行啓を仰ぎ雨降りしきるなか 戦没船員追悼式を執り行いました。 御歌はその時賜わったものです。 御心が末永く語り継がれることを念願いたします。 平成三年五月十五日 財団法人 日本殉職船員顕彰会会長 |
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【群像】 |
【戦没船員の碑建立記】 昭和十二年七月に端を発したさきの戦争において わが国の海運水産界は六万余人に及ぶ尊い船員の生命と二千五百隻八百四十万総噸を越える船舶を失うというまことに大きな犠牲を払いました それから二十五年 わが国の海運水産界は再び隆盛をとりもどし昔日にまさる繁栄をみるに至りましたが 私どもはこれら多くの戦没された船員の労苦を偲びその霊を慰めるとともに世界の海に二度とこのような悲劇をくり返さないように致さねばなりません うした私どもの願いは昭和四十四年七月財団法人戦没船員の碑建立会の発足となり 多数の人びとの協力を得てここに記念碑を建てて 戦没船員の名簿を納めることになりました 見渡す限りの大海原 変わることのないこの大自然を前にして この地を訪れる人びとと また沖をゆく船の人びとと共に心をあわせてこの記念碑が永遠の平和の光となりますよう深い祈りを捧げるものであります 昭和四十六年三月二十五日 財団法人 戦没船員の碑建立会 会長 足立正 |
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【進徳丸の錨】 |
(説明板:風化して読みにくい。あっているか?) この錨は、大正13年に神戸高等商船学校の練習船として建造された帆船進徳丸2518総トンの左舷錨であります。 進徳丸は戦前4本マストの帆船として活躍しましたが、昭和18年航海訓練所の所属となり、20年兵庫県二見港において空襲を受け擱座(かくざ)しました。 その後、汽船練習船に改装されて昭和37年まで就航しました。 この間31万海里に及ぶ帆走航海と20万海里の汽走航海の輝かしい歴史を有し、世界に雄飛する幾多の船舶職員を育てましたが、昭和42年からは財団法人進徳丸保存会により青少年の海洋訓練施設として神戸商船大学構内に保存されております。 説明板(その後の進徳丸) 神戸商船大学構内に保存されていた進徳丸は、平成7年1月17日、阪神・淡路地方を襲った大震災により、設置地盤が崩壊したため、老朽化していた船体は解体撤去されることになり、平成8年2月、多くの人々に惜しまれつつ、その波乱に満ちた生涯を閉じました。 解体された進徳丸の船首とマストは、神戸商船大学の「進徳丸メモリアル」に残りました。 |
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【 行幸啓お成りの碑】 |
【配置図】 |
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