慰霊碑参拝記録
 広島県福山市
メレヨン島戦没者慰霊碑 (備後護國神社)

建立場所
 広島県 福山市丸の内9-2 備後護国神社

趣旨(英霊)
 

碑文
 第二次世界大戦の戦局が急を告げていた昭和十九年二月幾度に亘り上陸した海軍将兵及び軍属三千五百名と同年四月十二日上陸した陸軍将兵三千三百名とより成る西カロリン群島メレヨン島守備隊は寧日ない米軍機の爆撃に晒されながら日夜防衛築城訓練に挺身したが戦況の悪化に伴い食糧衣料品弾薬の補給は意に任せず同年七月サイパン島陥落に続いてグワム島などの守備部隊が玉砕するに及び補給は全く絶え孤立無援になった 現地自活のための懸命な農耕と漁労にも拘らずサンゴ礁の土壌は農作に適せず不備な漁具による漁獲は少なく食糧は日を逐うて窮乏し一時は主食は一日一人百グラムの給養となって生命保持の限界をはるかに割り全島に鼠トカゲ類の影を見ない状態となった 剰え熱病アメーバ―赤痢等の風土病が蔓延し医薬品は欠乏して斃れるものが続出し総員六千八百名のうち爆撃による戦死者含め実に五千二百名を失うに至った
 私達は終戦最初の復員船回航のおかげで痩せ細った身を辛うじてこの島から生還し得たがその中の一部は上陸直後別府病院で亡くなった この島での一年有余の体験は私達の脳裏深く刻み込まれて終生忘れることは出来ない 終戦から二十年を経た今も尚私達は椰子の根元に埋葬した多くの戦友達の慟哭を聞く そして断腸の想を遠く南海の孤島に馳せ遺族の上に思い致せば万感胸に迫って慰問の辞を知らない 茲に生還者一同メレヨン会を結成し亡き戦友の英魂を弔慰(ちょうい)するため相扶(あいたす)けて陸軍部隊の主力であった南洋第五支隊編成の地福山市を選びこの碑を建つ
昭和四十一年四月十日
全国メレヨン会員一同

*「メレヨン島全戦没者銘碑建立について


 ここ備後護国神社社頭の「メレヨン島戦没者慰霊碑」は1966年(昭和41年)に建立された 以来メレヨン関係者の戦没者への慰霊鎮魂の象徴となっている この島での戦況は碑文(上記)で明らかなように戦争がもたらす特異な極限の環境であった
 しかし戦史には埋没されて多くを語り継がれることなく必ずしも後世への戒めとはなっていない 慰霊碑はまことに象徴的に過ぎ、個々の戦没者への鎮魂の証としてはなお十分といえない

 メレヨン島では地上戦はなく転進もかなわず彼我両軍に見はなされ補給は杜絶、守備隊陸海軍七千余の将兵の八割近くが僅か一年有半(1944年3月~1945年9月)の間にほとんど戦わずして疫病と飢餓に斃れた その惨状にもかかわらず、戦没者個々の氏名、没年月日などの調査掌握は他の戦場に比べ容易と判断され50年余を経た今日極めて困難な作業であった 発議後三年にしてようやく可能な限りの確認ができ、慰霊碑の背後に建立することができた
 ここに名実ともにメレヨン島全戦没者への慰霊弔魂の証が実現したことになる広大な太平洋戦域の中で一つの独立した戦場で陸海軍将兵 軍属の全戦没者を刻名した碑は他にその例を見ないのではないか
 故郷に残した肉身への切なる想いを断ち切られながらも祖国の繁栄を念じながら、若くして南溟(なんめい)の孤島に散華した戦没者の無念さを思うとき、遺族、生還者ともに断腸の思いで哀悼と悔恨の涙を禁じ得ない
 戦争の世紀「二十世紀」はまさに終ろうとしている
 「銘」とは深く永く心に刻むことである
 このときに当り戦没者お一人お一人の御名を称え、その面影を偲び、当時の戦況に想いを馳せ、あらためて、碑前に心からなる祈りを捧げ「過ちは繰り返しませぬから」の決意を込めて来たるべき新世紀への平和の誓いとする

 戦没者の中には南溟の孤島メレヨン島守備のために南下中1944年1月11日豊後水道で撃沈された「江りい丸」198名にもおよぶ犠牲者の無念をはじめ、メレヨン島から後送されて途中マリアナ海域で戦没した人々 1945年別府に帰還直後祖国の山河を見ながら恢復できず病没された人々も併せて刻名した その総数五千百有余柱となった
 また、海軍司令宮田嘉信、陸軍旅団長北村勝三 陸海軍両最高指揮官はその責に殉ぜられたことも特記する
   2000年(平成12年)10月
      中国地区メレヨン会 銘碑建設世話人会
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