特別攻撃隊忠魂之碑(秋田・総社神社) | |||||||||||||||||||
建立場所 | |||||||||||||||||||
総社神社 (秋田市川尻総社町14-6) | |||||||||||||||||||
碑の規模 | |||||||||||||||||||
超大型。 碑の背面に56名の英霊名刻印。 右側に碑建立の趣旨を書いた碑。左側の掲示板にお写真、経歴等掲示。 | |||||||||||||||||||
建立年月日 | |||||||||||||||||||
平成4年4月29日 | |||||||||||||||||||
建立者名 | |||||||||||||||||||
ツバサ広業(株)社長 桝谷健夫 (第三特攻戦隊川棚突撃隊海軍震洋隊基地員、海軍工作兵長) | |||||||||||||||||||
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碑文 | * 碑の正面:「あゝ忠烈萬世に燦たり大東亜戦争の意義また不滅なり」、「元第二十九航空隊参謀海軍少佐 富士信夫謹書」 * 碑の一番上:「天皇家の菊花紋」 * 碑の建立趣旨文「大東亜戦争の意義」 大東亜戦争は宣戦の詔書に明らかな如く我が国の自衛とアジア開放の大戦であった 江戸時代より我が国を脅かしてきた欧米との戦いは、昭和十六年十二月八日ハワイ作戦に始まり太平洋、南洋、インド洋、ソロモンと戦線が拡大するにしたがい、兵器兵員物資の消耗が激しく、戦局は我に利あらず日本は存亡の危機に貧した。このとき愛国の熱意に燃えた若者達は、いまや我が一身を爆弾とし、一機を以て一艦を撃沈するほか国を救う道なしと、愛機を爆装して次々と敵艦に突入、万朶の桜と散っていった。その偉大なる忠魂四千三十七柱は次のとおりである。 海軍神風特別攻撃隊 二五二五柱 特殊潜航艇 二八柱 潜航魚雷回天特別攻撃隊 八〇柱 陸軍飛行特別攻撃隊 一四〇四柱 いづれも二二、三歳の青年、中には十代の少年も少くなかった。青春多感なる勇士達はよく死を超越し、天皇陛下萬歳、大日本帝国萬歳と叫び、家郷の父母同胞の無事を念じ玉と砕けていった。不惜身命必死必殺の体当り攻撃は敵に深刻な打撃を与え世界を驚倒させた。しかし米国は史上最も残虐なる原子爆弾を広島、長崎に投下し、同時に、これと共謀したソ連は日ソ中立条約を破り満州、南樺太、千島へ侵略攻撃してきた。かくなれば本土決戦一億総特攻に及ばんとしたとき、 昭和天皇は終戦の御聖断を下し給い、昭和二十年八月一五日ついに涙をふるって特攻戦の鉾を収めた。日本は敗れた。しかしその戦争目的は達した。即ち大東亜戦争によってアジア、アフリカ、大洋洲の白人支配は完全に崩壊し、百ヶ国以上に及ぶ独立国を生んだ。身を殺して仁を為す、大和魂の真髄を発揮した特攻隊員の忠魂、愛国の至誠は人類史上万世に輝き、無窮に祖国の守りとならん。嗚呼我ら英霊を偲び昭和天皇御誕辰記念日にこの碑を建て永代に顕彰するものである。 |
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祭祀、管理者名等 | * 秋田県特別攻撃隊招魂祭が毎年4月29日に実施される。 | ||||||||||||||||||
その他 | * 建立者・桝谷氏は昭和十九年五月海軍志願兵で、昭和二十年五月に長崎県大村湾で編成された第三特攻戦隊 川棚突撃隊に配属され毎日のように特攻の出撃を見送り、遂に出撃を目前にして終戦を迎えた。
郷里に帰還してから戦死された数々の戦友の消息を遺族に伝えると共に、特攻戦死者の偉業を仰ぎ、真の思いを後世に伝えその忠魂を顕彰することが生存せる自分の務めと自責を負って以来、本来国や県な ど公でやらなくてはならない戦没者の名簿を私費で刊行し遺族に配布、また数々の戦争写真集や体験記を書籍にまとめ広報に努められた。 * 西村眞悟氏の時事通信「我レ敵空母ニ突入ス、17・21」・・・招魂祭参加 |
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