慰霊碑参拝記録
 千葉県
習志野騎兵旅団発祥の地(八幡公園)
建立場所
 千葉県習志野市大久保4-2 八幡公園(奈良市の郵便局南)

趣旨(英霊)
 旅団所属の兵士の慰霊顕彰
 軍馬の慰霊顕彰


同公園内の碑群
 左から
 ・ 馬頭観世音

 ・ 軍馬忠魂塔

 ・ 軍馬の碑

 ・ 騎兵第一旅団司令部跡

【公園内の碑群】
 
 【騎兵第一旅団司令部跡】
 碑文
騎兵第一 第二旅団は 明治三十四年十二月この地に創設せられ 日本陸軍最初の快速兵団として発祥した 第一旅団に属する第十三 第十四連隊 第二旅団に属する第十五 第十六連隊は堂々と甍を連ね 大久保の地は一転して一大衛戍地となった
 この地習志野の名は 明治六年 明治天皇行幸して親しく軍隊の調練を天覧せられし際 将来に亙り軍が操練に励むべき地として特に命名せられたるもの いま騎兵旅団の設置を見るに及び 正にその聖旨に副い名実相伴うに至ったのである
 明治三十七八年日露戦争に当り 両旅団は共に満州に出征よく機動性を発揮し 果敢善戦赫々たる戦績を収めて凱旋した尓来約三千の将兵は陣馬一体となり 日夜習志野原頭を馳駆して練武を重ね 輝く騎兵精神を培った 一面の草原は生気に満ち 連隊旅団を挙げての乗馬襲撃など正に壮観そのものであった かくて習志野騎兵旅団は陸軍の華と謳われ 地域住民の親愛と協力の下に 軍民一致輝かしい一時代を経過した
 満州事変の勃発するや 昭和七年第一旅団はこれに出動して各地に転戦し 引続きそのまま満州ハイラルに駐屯 さらに支那事変に活躍して偉功を樹てた この間第二旅団は終始この地に衛戍して訓練を続け また各種部隊の編成補充に任じた 時代の変遷に伴い騎兵部隊は逐次機械化の途を辿るに至り 第二旅団に昭和十六年 第一旅団は同十七年それぞれ戦車部隊に改編せられ ここに騎兵旅団の歴史は終りを告げたのである 発祥以来この地で訓練された壮丁は関東全域及び山梨長野両県下から選抜せられ その数延数万に及び 軍馬は北海道及び東北地方から補充せられ延一万余頭に達した この中には幾多の尊い戦没犠牲となった人馬があることを銘記しなければならない
 大東亜戦争後 習志野の地はその様相を一変し 広茫としていた習志野原も周辺の地域とともにその殆んどが都市化せられ旧兵営もその姿を変えるに至ったが この地が騎兵旅団と共に歩んだ四十年に 習志野発展史上特に意義深い一時代を画したものというべきである その由緒を記念するため 関係者有志と百余名の思いをこめてこの碑は建てられた
 希くは 習志野の地が永く栄光ある発展を遂げんことをと祈念し ここにその由来を誌す
     昭和五十一年四月
       建設委員一同
「市作成案内板:公園入口」
騎兵連隊・旅団司令部跡
 明治初頭より旧陸軍の演習が行われていた小金原は、同6年(1873年)明治天皇行幸の祭に「習志野原」と命名されてから、周辺に軍隊が急速に創設され、それにともない拡張されてきました。
 明治32年、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設され、同34年には大久保に転営して、現在の東邦、日本大学付近に第13・14連隊からなる第一旅団と、東邦中学校・高校附近に第15・16連隊からなる第二旅団がおかれました。
 さらに、八幡公園・習志野郵便局の地に旅団司令部がおかれました。
 日露戦争(明治37~38年)の折には、両旅団が派遣されましたが、満州事変(昭和6年)・支那事変(同12年)には第一旅団が派遣されました。この頃より軍隊の機械化がすすみ、騎兵連隊は装甲部隊に最編制されていきました。
 第二次世界大戦後、連隊跡は学校に、旅団司令部本部の建物は郵便局になり、八幡公園にあった司令部の講堂には、私立大久保保育園が開設されました。この保育園は昭和24年(1949年)津田沼町に移管されて、本市第一号の公立保育所となり、昭和40年、泉町三丁目に移転しました。
 昭和56年12月 習志野市教育委員会
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