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神奈川県県横浜市港北区 |
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戦没者慰霊碑(天満宮) | ||||||||
建立場所 | ||||||||
神奈川県横浜市港北区高田西3-26 天満宮境内 | ||||||||
趣旨(慰霊の英霊) | ||||||||
戦没者御尊名 76柱 | ||||||||
碑文 | ||||||||
昭和二十年八月十五日此の日こそ日本国民として忘れる事の出来ない悲惨な戦争終結の日である 満洲事変から始まり遂に太平洋戦争に突入し国民は父を子を夫を戦場に送り出された その戦士は南の海に北の荒野に日本の勝利を信じつつ遂に戦場の華と散ったのである。戦後三十有余年日本は見事復興し目覚しき発展を遂げた此の蔭には幾多の犠牲のあった事を忘れてはならない。 此の度我等在郷生存者一同相計り殉国諸霊のご冥福を祈り世界の平和を祈念し 過去の悲惨を繰り返さざる事を信じて慰霊碑を建立し 後世への教訓とするものである。 昭和53年3月吉日 慰霊碑建立之会 |
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その他 | ||||||||
大型角柱型石造 | ||||||||
【慰霊碑】 | ||||||||
【碑】 | 【碑全景】 | 【左:拝殿、右:碑】 | ||||||
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戦没者慰霊碑(若雷神社) | ||||||||
建立場所 | ||||||||
神奈川県港北区新吉田3490 若雷神社境内 | ||||||||
趣旨(慰霊の英霊) | ||||||||
新吉田町の戦没者 75柱 | ||||||||
碑文 | ||||||||
昭和二十年八月十五日、この日こそ日本国民が忘れることのできない戦争終結の日であります。日清日露戦争そして支那事変は遂に大東亜戦争にまで拡大し国民はそのたびごとに父や子供を夫や兄弟を国のため戦場に送り出され、南の海や灼熱の孤島で、或は酷寒の辺地に昿野を駆けめぐり、戦場に身を挺して日本国の勝利を信じつつ、遂には戦場の華と散った幾多の戦士達があります。戦後四十年我が国は終戦の悲惨な状態から国民の努力により、見事復興し、今では世界の経済大国に発展しましたが、その蔭には異国の地で肉親の惜別も得られず、犠牲となられた戦士達のあったことを私達は決して忘れてはなりません。このたび新吉田町一同相計り、殉国の諸霊のご冥福を祈り、過去の悪夢を繰り返えさないことを誓い、慰霊碑を建立し後世への教訓とするものであります。 昭和63年3月吉日 |
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その他 | ||||||||
大型角柱形加工石 | ||||||||
【慰霊碑】 | ||||||||
【拝殿の右側・立派な碑】 | 【慰霊碑全景】 | 【碑文:碑の右側】 | ||||||
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慰霊碑(日吉神社) | ||||||||
建立場所 | ||||||||
神奈川県横浜市港北区日吉3-9-5 日吉神社境内 | ||||||||
趣旨(慰霊の英霊) | ||||||||
日吉町の御英霊 38柱 | ||||||||
碑文 | ||||||||
昭和20年8月15日終戦が宣せられてより既に35年の歳月が過ぎ去って了いました。そして戦争の悲惨なみにくい姿を知らぬ人々が年毎に増えて来ました。 昭和12年7月中国に於端を発して以来8年大東亜戦争の名のもとに郷土日吉より幾多の有為な青年が親兄弟或いは最愛の妻子を残して祖国日本の不滅と勝利を信じてこの日吉神社の社頭より征途に就いたのです。 酷寒の大陸に灼熱の南方戦線に或いは鳥も通わぬ絶海の孤島に将又怒涛渦巻く太平洋に奮戦されたのですが武運拙く敵弾に斃れ或いは病魔に侵され無念にも若き生命を遠い異郷に散華され、再び故郷の土を踏むことの出来なかった英霊に対し衷心より哀悼の意を捧げ御冥福をお祈りするものです。 現在の我国は永世中立の旗印の下に繁栄と平和を築きあげましたがこの陰には数多くの尊い犠牲者のご功績があった事を修正忘れる事は出来ないと思います。 この度我等有志相計り忘れてはならない方々のご芳名を留めその霊を慰めると共に二度とこの悲しみを繰返す事なきを願い平和を祈ってこの碑を建てた次第です。 昭和55年11月3日 日吉町戦歿者慰霊碑建立委員会 |
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その他 | ||||||||
*中型角柱形黒色花崗岩 | ||||||||
【慰霊碑】 | ||||||||
【慰霊碑】 | 【慰霊碑全景】 | 【戦歿者名:慰霊碑裏面】 | ||||||
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慰霊碑(熊野神社) | ||||||||
建立場所 | ||||||||
神奈川県横浜市港北区日吉5-18-1 熊野神社境内 | ||||||||
趣旨(慰霊の英霊) | ||||||||
戦歿者 15柱 | ||||||||
碑文 | ||||||||
我が国は大東亜戦争に依り肇国以来未曾有の悲惨なる国難に遭遇せしも爾来克く苦難に耐え今や新たな平和と繁栄を世界に齎す指導力となった 惟に斯れは30有余年前只管報国の一念に燃えて勇躍戦陣に赴き或は南海の孤島に或は北辺の荒野に鉾鏑砲火の下或は風餐雨虐の間に苦戦糞と王以て命を致した戦病歿諸士の誠心の凝固に他ならない 今爰に当郷出身不皈の勇士10有余柱慰霊の儀典を行い永く石に英名を勒して後代に貽つ慰霊碑となす 昭和56年4月 熊野神社氏子一同建立 文部大臣 田中龍夫 書 |
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その他 | ||||||||
*大型角柱形石造 | ||||||||
【慰霊碑】 | ||||||||
【慰霊碑】 | 【慰霊碑全景】 | 【大東亜戦争戦歿者御芳名:慰霊碑裏面】 | ||||||
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長命観音(本長寺) | ||||||||
建立場所 | ||||||||
神奈川県横浜市港北区樽町4-1-15 本長寺境内 | ||||||||
趣旨(慰霊の英霊) | ||||||||
檀徒戦歿者 30柱 | ||||||||
碑文 | ||||||||
全戦死者彼我戦争犠牲者之霊位の為に慰霊供養す。 昭和56年10月13日建立 檀徒戦歿者遺族建立 |
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その他 | ||||||||
*大型観音像形石造 *観音と一体に英霊之碑、戦歿者のお名前、没年月日碑がある。 |
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【慰霊碑】 | ||||||||
【長命観音:枝で顔が見えない】 | 【慰霊碑全景】 | 【観音】 | ||||||
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