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神奈川県川崎市高津区 |
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大東亜戦争戦死者忠霊碑(久末天照大神) | ||||||||
建立場所 川崎市高津区久末642 久末天照大神境内 趣旨(慰霊の英霊) 川崎市久末 大東亜戦争戦死者 石田政吉他17柱 碑文 昭和40年11月3日建立 その他 *管理神社である久末天照大神(天照神社)は、平成25年10月12日、焼失に伴い再建予定であるが、市街化調整区域内のため、許可が大変難しく遅れているとのこと。 平成27年秋には着工予定との案内があった。 *大型方形石 |
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【碑】 | 【碑全景】 | 【碑裏面:戦死者芳名】 | ||||||
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慰霊碑(橘樹神社) | ||||||||
建立場所 川崎市高津区久末642 橘樹神社境内 趣旨(慰霊の英霊) 地区の戦没者16柱 太平洋戦争:11名 日露戦争:4名 日清戦争:1名 碑文 国家の存亡をかけた太平洋戦争及び日清日露の両戦争の際、子母口からも幾多の有為な青年が愛する肉親や郷土と別離し、万里の波濤を越えて酷寒の大陸に或いは灼熱の南方戦線へと苛烈な戦場に向かいましたが、無念にも敵弾斃れ或いは病魔に侵され、あたら若き生命を遠い異郷に散華し、再び故郷の土を踏めなかった十六柱の英霊に対し、その遺族は勿論、私共、同じこの土地に生を享けた有縁の者として恵心より哀悼の意を捧げご冥福をお祈りするものです。 戦い終わって三十三年、その後の我国の復興は目覚しく、予想もしなかった平和と繁栄の現在を迎えましたが、これも祖国の不滅を信じ敢然として死地に赴き国難に殉じ、平和の礎石となられた英霊の御加護もあるものと深く感謝いたします。 しかし、この英霊の氏名も長い年月の経過と共に次第に忘却の彼方へおしやられることを憂い、忘れてはならない方々の霊を慰めると共に、永くその名を留め、また再びこのような悲しみのない永への平和を祈念する趣旨のもとに、地区内有志相図って征旅の門出に縁りのある当神社境内にこの慰霊碑を建立しました。 昭和53年11月(16日) 子母口慰霊碑建立委員会 建立 その他 *大型方形花崗岩 |
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【慰霊碑】 | 【慰霊碑全景】 | 【背面:英霊名】 | ||||||
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慰霊碑(千年神社) | ||||||||
建立場所 川崎市高津区千年539 千年神社境内 趣旨(慰霊の英霊) 千年出身の御英霊25柱 碑誌 ここ千年の地に生を享け 多くの人の情と 豊かな自然に育まれて二十余年 偶々国難に遭遇す 日清・日露の両戦役より第2次世界大戦に至る数度の戦いに国に召され戦場に赴きし者 実に百余名の多くを数う 特に第2次世界大戦においては 北は北海の孤島より 南は南溟の果に至るまで 広大な戦域に 酷寒 酷暑に堪え 悪疫に抗し 只管 祖国の護持と 郷党、家門の名誉にかけて奮戦すること 幾歳月 不運にしてその若き尊き生命を 異境の地に昇華し、生きて再び千年の地に帰ることなかりし二十五名に及ぶ 戦後四十八年、祖国日本は稀にみる繁栄と平和を手中にし、世界の瞠目を引く 今静かに英霊に思いをいたし、有志相寄り、鎮守の森の佳き地を選び、萬腔の敬意をこめて本碑を建立す 英霊の眠りの永久に安からんことを願い、この平和を乱すことのなきを誓うものなり。 昭和62年7月15日 千年戦没者慰霊碑建立委員会 *左右の側面に、25柱の氏名、歿年月日 没地を刻印 その他 *大型角柱形白色花崗岩構造 |
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【慰霊碑】 | 【慰霊碑全景】 | 【側面:英霊名】 | ||||||
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慰霊碑(新作八幡宮) | ||||||||
建立場所 川崎市高津区新作3-6-15 新作八幡宮境内 趣旨(慰霊の英霊) 戦没者18柱:日露戦争戦没者 1名、 大東戦争戦病歿者 17名 碑文 戦争を知らない世代の人々が国民の半数を越え悲惨な戦争体験の記憶が薄れているが、今日の我が国が国の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上に築かれたものであることを忘れてはならない。 そして二度と戦争を起こしてはならないと云うのが国民共通の願いである。 昭和初期新作は60数戸の平和な農村であった。国の非常時とはいえ第2次世界大戦に当地新作からも親兄弟又最愛なる妻子を残し60数名の方々が招集を受け従軍された。 ひたすら祖国の勝利を信じ南海の孤島に大陸に北洋の荒海に身命を捧げ陸に海に空に散華せられた尊い犠牲者の功績を終世忘れることはできない。 本年昭和53年第2次世界大戦(大東亜戦争)の終戦33年を迎えるにあたり我等有志一同並びに遺族一同ここに1碑を建立し謹んで戦没者の遺徳を偲ぶと共に永久に諸英霊のご冥福を祈念するものある。 昭和53年12月8日 新作戦没者慰霊碑建設委員会建立 *靖国神社宮司 池田良八 書 その他 *大型方形石造 |
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【慰霊碑】 | 【慰霊碑全景】 | 【側背面:英霊名】 | ||||||
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大東亜戦争英霊供養塔(宗隆寺) | ||||||||
建立場所 川崎市高津区溝口486-1 宗隆寺境内 趣旨 檀信徒の戦歿者の慰霊 碑文 (経文) 今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此處 多諸患難 唯我一人 能為故護 昭和46年12月8日 宗隆寺檀信徒会 建立 その他 *秋季彼岸の中日 慰霊祭 *小型宝塔状構造 |
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【慰霊碑】 | 【慰霊碑全景】 | 【背面:経文】 | ||||||
征清軍人記念碑(宗隆寺) | ||||||||
建立場所 川崎市高津区溝口486-1 宗隆寺境内(裏山) 趣旨 戦歿者 金子定他1柱の慰霊 碑文 明治33年4月15日 高津村恤兵会 建立 岡 重孝 書 その他 *中型変形自然石 |
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社務所で碑の存在をお聞きしました。:「裏山の頂上付近にあるが、山が崩れており危険で立入禁止です。公開はしていません。」と言われました。 残念ですが、御迷惑をおかけすることは出来ません。資料のみです。 |
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日露戦役紀念碑(宗隆寺) | ||||||||
建立場所 川崎市高津区溝口486-1 宗隆寺境内(裏山) 趣旨 戦歿者 芦田勝蔵他6柱の慰霊 碑文 明治40年4月 高津村恤兵会 建立 希典 書 その他 *大型自然石 |
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社務所で碑の存在をお聞きしました。:「裏山の頂上付近にあるが、山が崩れており危険で立入禁止です。公開はしていません。」と言われました。 残念ですが、御迷惑をおかけすることは出来ません。資料のみです。 |
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戦歿者慰霊碑(神明神社) | ||||||||
建立場所 川崎市高津区下作延4-16 神明神社境内 趣旨(慰霊の英霊) 英霊42柱 戦災死者:10柱 碑文 国家の存亡をかけた太平洋戦争及び日清日露戦役に下作延から幾多の有為な青年が愛する肉親や郷土を後に戦地に赴きました 無念にも敵弾にたおれ或いは病魔に侵され 尊い生命を異郷に散華した英霊と本土空襲による戦災犠牲者に対し その遺族は勿論 私共同じこの土地に生をうけた有縁の者として衷心より哀悼の意を捧げます その後我が国の復興は目覚ましく戦争を知らない世代の人々が国民の半数を越え悲惨な戦争体験の記憶がうすれてきました 今日我が国の平和と繁栄は戦歿者の尊い犠牲の上に築かれたものであることを忘れてはなりません そして戦争を体験した大人達は子供達になんらかのかたちでその悲惨さを伝える義務があると思います そこで 私たちは永く戦歿者の名を留め再びこのようなことのない 永遠の平和を祈念する為有志が ここに 碑を建立し遺族を偲びつつ戦歿者の冥福を祈念するものであります 昭和57年11月 下作延慰霊碑建立委員会 建立 その他 *大型角柱形白色花崗岩造 |
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【慰霊碑】 | 【慰霊碑全景】 | 【戦歿者・戦災死者名板】 | ||||||
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日露戦役紀念碑(諏訪神社) | ||||||||
建立場所 川崎市高津区諏訪176 諏訪神社境内 趣旨(慰霊の英霊) 日露戦役に出征した地域の戦歿者の慰霊(推測) 裏面に戦歿者の芳名が刻印されている模様(資料)。石塀にぴったりついているので細部不明。 碑文 明治39年10月 建立 岡 重孝 書 その他 *中型変形自然石 *資料によると、拝殿近くに建立されていたようであるが、何時の時期か境内が狭いので現位置に移設した模様。 |
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【慰霊碑】 | 【慰霊碑全景】 | 【碑・社号標・鳥居】 | ||||||
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慰霊碑(大山小径) | ||||||||
建立場所 川崎市高津区溝口68-1 大山小径公園の奥(溝口公園手前) 趣旨(慰霊の英霊) 碑文 郷土の平和を祈って私達の先輩は戦没した。 祖国の平和を護って犠牲者は眠っている。 世界の平和を念じて私達は永遠に忘れない。 昭和34年5月 高津地区戦歿者慰霊碑建立促進会 建立 川崎市長 金刺 不二太郎 書 その他 *大型方形構造 |
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【慰霊碑】 | 【慰霊碑全景】 | 【碑文】 | ||||||
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