神奈川県(その3)慰霊碑一覧・参拝記録
 神奈川県横須賀市
豫科練誕生之地 (貝山緑地)
 建立場所
 神奈川県横須賀市浦郷町5 貝山緑地(追浜神社跡)

趣旨(英霊)
 細部下記参照

碑文
  昭和五十六年六月一日建之
   豫科練第一期生より第十期生までの生存者一同

* 浮田信家 謹書
「説明碑」
 光る海 明るい太陽の下 大空をこよなく愛し 国を想うひとすじの少年たちが撥溂としてここに溢れていた
 昭和五年六月一日 横須賀海軍航空隊内の一隅に 海軍少年飛行兵の教育機関として 横須賀海軍航空隊豫科練習部 が誕生し やがて豫科練 として愛称されるようになった
 志願者の年齢は十五歳から十七歳 修業年限は三ヵ年 俊秀なる大空の勇士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ってこの制度は創設され全国五千九百余名の志願者から厳選された七十九名が第一期生としてここに入隊した 土浦 三重 鹿児島など 後には十九を数えるに至った豫科練航空隊の萌芽である
 時局の進展につれて 海に臨み山を負うこの地は狭小となって昭和十四年三月霞ヶ浦湖畔に移り 翌年独立して 土浦海軍航空隊となった 豫科練の歴史十五年三ヶ月のうち 実に八年九ヶ月は ここ追浜の地で教育活動が行われたのである そこで目指したものは 優れた搭乗員としての人間形成と基礎教育であった 少年たちは鉄石の訓練をものともせず 乾いた砂が水を吸いこむようにあらゆるものを純粋に受け入れて自らを育てていった
 豫科練を巣立った若人たちは 飛行練習生教程 実用機錬成教育と研鑚を重ねてたくましい若鷲と育ち 太平洋戦争に於ては 名実共に我が航空戦力の中核となり 水陸の基地から 航空母艦から 戦艦 巡洋艦或は潜水艦から飛び立ち 相携えて無敵の空威を發揮したが 戦局利あらず 敵の我が本土に迫るや特別攻撃隊員となり 名をも命をも惜しまず一機一艦必殺の体当たりを決行し 何のためらいもなく 無限の未来を秘めた蕾の花の生涯を祖国防衛の為に捧げてくれたのである
 顧れば 少年たちは戦いを求めてこの地に集まったのではなく 制空護国の一途の念いからであった 豫科練誕生以来既に五十一星霜 若人たちの至純の赤心が 祖国の安寧と世界平和の礎となることを祈念して旧学び舎の丘の上にこの碑を建つ
    昭和五十六年六月一日
       此の地に学んだ生存者一同
       撰文 倉町秋次  書 鈴木忠正


「碑建立地入口の案内看板」
 予科練とは海軍飛行予科練習生の略称にして海軍少年飛行兵とも別称す。
  昭和五年六月一日第一期生入隊以来昭和十四年二月第十期霞ヶ浦に移るまで、全国より選ばれたる少年此の地に集い学び此の地を巣立ちて日夜猛訓練の中に技倆を磨き、
  やがて日支事変勃発するや中国の空に第二次世界大戦においては南海の空にと唯々国の為同胞の為にと信じて各地に勇戦敢斗赫々たる武勲を残して その大多数が大空に散華す。
 我々不思議に命永らえたる生存者一同今は亡き同窓の英霊を偲びて、思い出の此の地追浜神社跡に建碑す。
 即ち予科練誕生之碑也
   昭和五十六年六月一日
    予科練一期生より十期生まで生存者一同」

「道路脇の案内板」:海軍飛行予科練習生制度(予科練)について
 海軍飛行予科練習生は「予科練」として知られ、昭和5年に当時の横須賀海軍航空隊に第1期生が入隊しました。その後、昭和12年に甲種飛行予科練習生(甲飛)制度が創設され、従来の制度は乙種飛行予科練習生(乙飛)制度と改められました。

(横須賀海軍航空隊にかかる沿革)
 昭和4年12月29日  予科練習生制度創設
 昭和5年6月1日   横須賀海軍航空隊に予科練習部を開設(第1期)
 昭和11年2月4日  予科練習生を飛行予科練習生に改称
 昭和12年5月    甲種飛行予科練習生制度を創設 従前の制度を乙種飛行予科練習生制度と改称
    9月1日     甲種飛行予科練習生入隊(甲1期)
 昭和14年3月1日  霞ケ浦海軍航空隊へ移設
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