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京都府京都市 |
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霊山観音(京都東山) | ||||||||
建立場所 京都市東山区高台寺河原町526-2 趣旨(慰霊の英霊) 四季変わりなく緑の滴る洛東霊山の麓に平和の建設と殉国の英霊並びに大戦による犠牲者の冥福を祈念するために故石川博資氏によって建立された。 *残念ながら、現状は御英霊に関するよりも、他の面(観光)に重点を置いているような気がした。御慰霊や大戦の犠牲者に関係する霊牌殿、メモリアルホールは必ずしも十分に整備されておらず、慰霊碑等の周囲は清掃等不十分であり、悲しくなった。 ホームページを見ても、御慰霊に関する部分は十分な説明がなく、一般的な供養や観光案内になっているような気がする。 何人かの参拝者がおられたが、御英霊に関する施設等に行かれる人は少なかった。 出来れば、建立の趣旨をもう少し全面に出して頂ければ、御英霊も喜ばれるであろう。 |
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【霊山観音】 | ||||||||
【門前から】 | 【本堂:観音正面】 | 【観音】 | ||||||
【観音胎内】 | 【観音内陣】 | 【栞】 | ||||||
* 慈眼溢るる麗しいこの観音像は彫刻界の元老、故山崎朝雲先生によって原型が作成され、更に関係者の献身的な努力によって昭和の代表的芸術として後世に偉 跡を残す荘厳な尊像が出現した。 *高さ 24m 総重量 約500t 開眼 昭和30年6月6日 |
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【開基廟 : 石川博資の碑】 | ||||||||
慰霊碑 | ||||||||
【霊牌殿:戦歿者英霊位牌堂】 | ||||||||
【慰霊碑】 | 【慰霊碑全景】 | 【背面:英霊・出陣者名】 | ||||||
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【メモリアルホール:第2次世界大戦無名戦士碑】 | ||||||||
【慰霊碑】 | 【慰霊碑全景】 | 【背面:英霊名】 | ||||||
譽れあれ 味方も敵も小野が祖国のために倒れた勇士に しかし彼に至高の犠牲を払わせた戦争は人類の悲劇であった。生ける吾等はここに心眼を開いて奮起し、いや高まる熱意をもって平和探求に精進しよう。 世界平和 四海兄弟 昭和53年6月8日 霊山観音会 建立 |
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【留魂:中野学校慰霊碑】 | ||||||||
「碑文」 留魂之賦 陸軍中野学校は創設の精神に鑑み大楠公を師表と仰ぎその至誠殉忠を以て教育の基本とせり 蓋し誠は情と理の極まる処 古今東西に通ずる大道たり 己を滅却して礎石たるに安んじ 名利を棄て 悠久の大義に生くるの信念は実に茲に渕源す 我等中野に学びて特殊の軍務に服し 或は厳しき使命を帯びて世界の各地に勤務し 或は東亞の諸地域に於て大東亜戦争の一端に従う 数多の同志その任に殪れて遂に帰らず 又戦後祖国の再建に力を致し既に不歸の客となる者尠なからず 畏敬追慕の情 歳とともに深し 今 校友相図り維新の史蹟霊山の聖地に一碑を建立して先達英霊を迎え祀ると共に祖国の弥栄と世界の平和を祈念して此の碑に我等が志の支柱たる誠の精神を留めんとす 更に遺霊許し給わば我等も亦棺を蓋うの日兄等の膝下に参じ以て同志骨肉の交りの永劫に絶えざらんことを冀う 茲に兄等と共に愛唱せし三三壮途の歌を賦して慰霊の微衷を捧ぐ 昭和56年4月11日 中野校友会 会長 櫻一郎 撰並書 |
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【韓国人犠牲者慰霊塔】 | ||||||||
大東亜戦争中 韓国人で我陸海軍に応召従軍したもの二十万余名 そのうち八千八百六十一名が戦死連合国軍事裁判に伏せられて刑死したもの二十三名 その他犠牲者も多数に及んでいる これらの人々はかつては我らの同胞としてともに我国のために奉仕し身命をささげられたのである 韓国はいまや独立国 我国としてこれらの人々の霊を祭ることは許されない しかし心ある日本国民は国民感情がこれを許さない そしてこの英霊を慰めるためにこの塔をつくり 永遠に祈念し祭祀をつづけることになったいわば国民がささげた靖国の塔である 昭和43年11月 |
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【工華鍾魂之碑:陸軍兵器学校】 | ||||||||
明治5年7月 開校 諸工伝習所 明治23年7月 改称 陸軍砲兵工科学舎 明治29年4月 改称 陸軍砲兵工科学校 大正9年8月 改称 陸軍工科学校 昭和15年7月 改称 陸軍兵器学校 昭和20年8月 閉校 平成4年4月5日 工華会有志建立 |
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「碑文」 吾等の学校は 兵器技術教育に関わる陸軍唯一の機関で 遠く明治5年に淵源し校名に変遷はあったが 隆昌の一途を辿った 終戦により74年の歴史を閉じたが 彼の学舎で過ごした夢多き多感の青春を懐かしむ想いが募り 工華会の結成となった かってのうら若き紅顔の武学生も 今や等しく還暦を越え 余勢は恰も西山に輝く残照を見る想いである ここに遺族を含めた同志に浄財を仰ぎ 王城の地東山の霊山観音の聖地に 生死を越えた友情の絆の証「工華鍾魂之碑」を建立し 先立ちし諸霊を迎えまつり 吾等また現生を辞するの日驥尾に付し その交わりの永劫に絶えないことを願うものである 平成4年4月5日 工華会会長 中原幸 撰文 遺族代表 勝見松江 筆 「石碑の由来」 碑銘「工華鍾魂之碑」の御揮毫は全日本仏教会会長比叡山天台座主山田恵諦98翁大僧正猊下の御染筆であります。 碑上部の赤い玉は円い玉には霊魂が鐘るとの説にあやかりました。これは碣にも通じるものであり校章の輝く星と相俟って和、太陽、日章旗或は永恵印の宇宙など広く床しく象徴されるものであります。 右校章は大坂の杉本保君の熱意による秀作であり校名は京都の丸本勇君筆であります。 陸軍工科学校には火工・鞍工・銃工・鍛工・木工・機工・電工の七工科がありましたので之に因み芳名碑を七角形としました。 陸軍兵器学校は改編により火工・技工・鍛工・機工・電工の五科となりましたので碑文之碑を五角形としてこれを表現しました。尚、碑柱はポルトガルの御影石、赤い玉と黒石は印度産、床は中国の白石を以て構成しまいた。 皇紀2652年(西暦1992年)平成4年4月5日建立 |
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【十八期の碑:海軍飛行予科練習生】 | ||||||||
「碑文」 太平洋戦争に於て四百五名の同期生は海軍少年飛行兵として紺碧の大空に散華し未曾有の国難に殉じたり 散るべくして散る機を得ざりし吾等は英霊の萬古に安らかならんことを祈念してここに十八期の碑を建つ 昭和40年3月28日 第18期海軍飛行予科練習生 生存者一同 |
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「碑脇の説明文」 こんぺきの空は果てしなく碧い。その空の彼方に散りし戦友よ。安らかに眠り給え 昭和十七年五月一日、全国から志願した若者千四百七十五名が土浦海軍航空隊に入隊し、所定の訓練を終えてそれぞれの任地へ飛び立って行ったが、太平洋戦争は多くの少年達の命を惜しみなく奪って行った。 そして戦後四百五名の戦没者の霊を慰めんと生存同期生が此の地で供養を続けて八年目、"十八期は一つ"と念願し、全同期生が一堂に集える場所として茲に十八期の碑を建てるに至った。 この碑の前に立つ時、幾多の苦難を共にした想い出を亡き戦友と語り合い乍ら、同期の桜を咲かせるであろう。 昭和四十年三月二十八日 予科練一八会 |
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【慰霊之碑:飛行第19戦隊】 | ||||||||
「碑文」 飛行第19戦隊は昭和18年12月北伊勢の地にて飛燕戦闘隊として誕生 19年6月、勇躍比島に前進、船団掩護に任じ、次いで反攻し来る米機動部隊艦載機群と熾烈な空中戦を展開、10月捷1号作戦下令、レイテの敵艦船を攻撃、多大の戦果と共に多くの戦友また散華す。11月愛知県小牧で戦力回復、B-29を邀撃、撃墜、20年1月再度鵬翼を南の空にのばし、ルソン島リンガエン湾の敵艦船を特攻攻撃、3月天号作戦下令、沖縄進攻の米機動艦隊に対し、台湾宜蘭飛行場より、誠特別攻撃隊となり相次いで沖縄の空に散華、護国の鬼となれり。 北部ルソン島残留の地上勤務者は、運命を陸軍部隊と共にせり。 8月、戦隊は台湾花蓮にて終戦を迎う。戦歿者4百余柱 謹んで戦隊史を記す。 昭和49年3月24日 飛行第19戦隊飛燕会 *戦歿者氏名碑有 |
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【高射砲第二十二聯隊戦友之碑】 | ||||||||
「碑文」隊暦 中支那派遣軍陸軍高射砲第二十二連隊は、昭和十四年二月湖北省漢口に於て編成す。 砲三ヶ中隊、照空一ヶ中隊及本部、材料廠にして総員五七一名。歴代隊長吉田権八、斎藤寿恵雄、鳥浜慶助、加藤助一統率の下、軍紀正しく和気藹々たる団結をなす。 宜昌作戦をはじめ、長沙、湘桂、南部奧漢打通、湘西等多くの作戦に参加。 陣中の起居は質実にして現地自活を工夫し、武漢落雀の猛暑に耐えて射撃訓練に励み、「褌部隊」の愛称あり。戦闘は神速機敏、一致協力、随所に幾多の敵機を撃墜し敵をしてその心胆を寒からしむ。 戦死者七十四柱。護国の英霊となる。 湖南省長沙に於て終戦となり、翌昭和二十一年七月七日浦賀にて復員す。 爾来家郷に於て夫々職を営むも、互いに相助け相励まし、戦友の交誼はは愈々深まれり。昭和四十六年想い出の実録「高砲二二戦史」を発刊す。 国栄え人心潤う。ここに平和の尊厳を絶叫する。平和を希求し、英霊の冥福を祈り、霊山観音の一角に碑を建て、戦友一和、久遠の契りを結ぶ。 昭和五十年三月吉日 高砲二二戦友会 戦歿者御芳名刻印 |
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【千歳輝碑:歩兵第六十聯隊】 | ||||||||
「説明文」 元歩兵第60聯隊(祭7368部隊)は昭和13年に編成され第15師団(祭部隊)中核部隊として中支蕪湖付近の警備にあたり武漢攻略戦・浙東・浙贛両作戦を始め諸作戦に勇名を轟かせ又大東亞戰爭となるやインド・ビルマ方面に進出しかのインパール作戦に於ける英印軍の總反撃のみならず酷暑惡疫などの戰いをも続け歩兵の本領を発揮し勇猛果敢にその任務を遂行いたしました。 この輝かしい戰史の陰には生死を固く誓い合った幾多の戰友が敵彈に斃れ或は病魔に倒れて再び還らぬ尊い無言の勇士となられたのであります 特にインド・ビルマ方面の各戰斗におきましては部隊の九割を失いその大部分の方は京都・滋賀出身の者で異境の地に祖國の為尊い御柱となられたのであります この度諸英靈の故郷である京都とくに四季緑美しい東山山麓の靈山観音像膝下に慰靈碑の建立を見るに至ったのであります 主碑は大覚寺門跡草薙全宜大僧正の御揮毫で忠魂は永久に燦として輝という千歳輝の文字これを岡山県産の白みかげ石にて高さ1.5米横2.8米重さ3.5屯あり遥かインパール方面に向い上面の凸凹はかのアラカンの山脈をかたちどり前面の小石は海を現わしております また副碑はインパール作戰当時の聯隊長松村弘氏が草稿されたもので福島県産黒みかげ石を使用高さ六六糎横六六糎重さ0.6屯あります 昭和42年1月インパール地区戰跡慰靈団が派遣され訪れる人なきあの瘴癩の地に安らかに眠れる亡き戰没者の靈を懇に弔い現地の石を聖石として持歸り戰友のみたまと倶に慰靈碑に安置し戰没者の冥福を祈る次第であります 昭和42年4月29日 |
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【慰霊碑: 飛行第八十一戦隊・飛行第八戦隊第一中隊】 | ||||||||
(碑文内) |
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「碑文」 飛行第81戦隊及び飛行第8戦隊第1中隊(昭和19年合併)は大東亜(太平洋)戦争勃発以来東南アジア全域に亘り転戦、常時高性能を誇る100式司令部偵察機を駆って重要航空捜索任務を強行完遂しこの偉業によって3回の部隊感状が授与された。 後期飛行第15戦隊をも併合し、次期作戦準備中、終戦を迎えた。 この燦然たる部隊功績の陰では、開戦以来空中勤務者を主とする105柱の戦友を失っている。誠に痛恨の極みであり、今も当時の勇姿を忘れることができない。 我等生存者、茲に慰霊碑を建て、諸霊の安らかに眠らんことを祈る。 昭和60年4月吉日 飛行第81戦隊・飛行第8戦隊第1中隊 つばさ会 戦友遺族一同 |
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【京都府原爆死没者慰霊碑】 | ||||||||
謹んで永遠の平和を祈念し 原爆の犠牲となられし 御霊に捧ぐ 平成四年三月建立 団法人京都府原爆被災者の会による碑 |
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【慰霊碑地域】 | ||||||||
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【日露戦争記念碑跡之碑柱】 | 【護摩堂:霊山厄除不動明王堂】 | 【全国交通事故物故者供養塔】 | ||||||
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