慰霊碑参拝記録
 山形県山形市
戦没者慰霊碑(国分寺薬師堂)
建立場所
 山形県山形市薬師町2丁目12-32 (薬師公園内、護国神社隣接))
趣旨(慰霊の英霊)
 第36師団(雪部隊)戦歿者の慰霊
碑文
「碑文」戦史
 雪部隊は日華事変中の昭和14年(1939)弘前、秋田、山形の各歩兵聨隊を基幹とし、騎兵、砲兵、工兵、輜重各連隊を含む第36師団隷下各部隊の秘匿名で、雪国青森、岩手、秋田、山形県の東北健児をもって編成された郷土部隊である。
 雪部隊は昭和14年3月編成完結、4月北支派遣軍として中国大陸に渡り、華北、山西省に進撃、爾来約5ヶ年、華北の山岳地帯各地を転戦し、舞部隊(初代師団長舞伝男中将)井関部隊(2代師団長井関仭中将)としてその勇名を天下に轟かした。 当事山西省には閻錫山の率いる山西軍、朱徳の率いる共産八路軍、そして蒋介石政府軍と、中国の精鋭部隊が峨々たる峻嶮に拠って頑強に抵抗したのであるが、雪部隊は中原会戦、沁河作戦、大行作戦等二十数回にわたる作戦を敢行し、勇敢にして粘り強い東北健児の特色を遺憾なく発揮して激戦に次ぐ激戦を重ね遂に山西省を平定し北支派遣軍随一の武勲を樹てたのであるが、わが部隊も忠勇無比の将兵1,500名を失った。
 日華事変も遂に太平洋戦争に発展し、聨合国軍の反攻作戦漸く激しくなる頃、昭和18年(1943年)10月雪部隊に突如として濠北派遣の命が下った。 部隊(3代師団長田上八郎師団長)は急ぎ華北山西省を後にして上海、南京附近に集結、11月末に上海出帆、一路南下して赤道を越え12月末ニューギニア島サルミ附近に上陸した。 この島は密林(ジャングル)と湿地帯とそしてマラリヤの猛威をふるう全くの未開地であった。 時既に戦局は我に不利、上陸後戦備を整える暇もなく昭和19年4月頃より敵はサルミ地区に対し圧倒的な空軍と海軍により攻撃を開始して来た。 わが雪部隊はマッカーサーの指揮する南東太平洋方面聨合軍をこの地に迎撃して血みどろの激戦となったのである。 日本陸軍でも最強とうたわれたわが雪部隊は、悪条件にもかかわらず、よく善戦奮闘し、遂に敵上陸部隊を撃退したが、物量に物をいわせる聨合軍の連日の猛爆撃と艦砲射撃、制空権と制海権を完全に奪われたわが軍は、密林と湿地帯に阻まれて作戦行動ままならず、加えて赤道直下の炎熱と食糧不足、マラリヤ、栄養失調、脚気等により悪戦苦闘その極に達し、戦場は正にこの世の生地獄の様相を呈し、生残る戦友数うるに足らず、ワクデ島守備の石塚隊玉砕、そしてまたビアク島の雪3523部隊(葛目聨隊)も玉砕、雪部隊はその主力を失なってしまった。 ニューギニアに上陸した雪部隊隷下の将兵14,000名戦没者11,794名、生存して帰還したる者僅かに2,000余名に過ぎず。
 戦後昭和31年(遺族代表神保氏参加)と昭和46年(戦友代表鈴木健三郎氏・中沢農夫氏参加)にニューギニア遺骨収集団が派遣され多数の遺骨を故国に持ち帰ることができたが未だ南海の果、ジャングルの中には無数の戦友の遺骨が眠っている。
 九死に一生を得て僅かに帰還したる者われら断腸の思い、誠にしのびざるものある。 山形在住の雪部隊生存者による雪部隊慰霊祭実行委員会が中心となり、寄付を募り再度遺骨収集を計画したが現地政府の許可なく断念するのやむなきに至る。 よってこの地に雪部隊戦没者慰霊碑を建立し、純粋なる祖国愛に殉じた戦友の英霊を慰め心から冥福を祈るものである。
    昭和53年9月2日 謹日
* 雪部隊慰霊会長 山形県知事 板垣清一郎 謹書

「副銘版碑文」
 異国の地で散華された13,249名の、戦没者名簿、雪部隊史並びに聨隊史をカプセルにし、生存者の赤誠の鎮物として、慰霊碑の奥深きに納め埋蔵し、永久に慰めるものである。
  安らかにお眠り下さい。
【碑】 【碑全景】 【碑裏面:雪部隊慰霊碑建設寄進者】
慰霊碑一覧

inserted by FC2 system