広島原爆記録
広島平和記念資料館(広島市)
所在地
 広島市中区中島町1-2 平和記念公園内

沿革(栞から)
 
*はじめに
 1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島は世界で初 めて原子爆弾による被害を受けました。まちはほとんどが破壊され、 多くの人びとの生命がうばわれました。かろうじて生き残った人も、 心と体に大きな痛手を受け、多くの被爆者がいまなお苦しんでい ます。
 平和記念資料館は、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資 料を収集・展示するとともに、広島の被爆前後の歩みや核時代の 状況などについて紹介しています。 資料の一つ一つには、人びとの悲しみや怒りが込められています。
 原爆の惨禍からよみがえったヒロシマの願いは、核兵器のない平和な社会を実現することです。

館内施設
 ・ 常設展室(本館):遺品や被爆資料を展示して、1945年8月6日、広島に何が起こったのかを伝えている。
 ・ 東館:  1階;ガイダンスから始まり、被爆までの広島、原爆の開始から投下までについて模型や写真、映像、パネルで紹介しています。
      2~3階;核時代の現状や広島市の平和への取り組みについて模型や写真、パネルなどで紹介しています。
         * ;リニューアルのため東館を改修中。東館は平成28年春まで、本館は平成28年春から平成30年まで閉館予定です。
【資料館の概要】
 
資料館入口
鑑賞券

きのこ雲
被災地(赤球の下が爆心地
壁の変形;山の形に

広島陸軍被覆支廠
鉄骨の梁の変形
佐々木禎子さんの暑中見舞い
資料館から見た慰霊碑・ドーム
資料館展示の概要(栞から)
 本館
* 放射線による被害
 原子爆弾の特徴は、通常の爆弾では絶対おこらない放射線の影響によって、人体に大きな障害が加えられたことです。 特に、」爆心地から]キロメートル以にいた人は致命的な影響を受け、多くは数日のうちに死亡しました。 被爆直後から短期間に現れた急性障害は。発熱、はきけ、下痢、出血、脱毛、全身のけだるさなど、さまざまな症状をひきおこし、多くの人が死亡しました。 さらに急性障害の後に発症する後障害として、ケロイドや白血病、ガンなどの病気が多くの被爆者を苦しめています。   人影の石爆心地から26Cm 周りの石段の表面が熱線によって白っぽく変化しましたが、人が腰掛けていた分だけが黒い影のように残りました。 寄贈/住友銀行広島支店 熱線による被  爆発の瞬間、爆発点の中心温度はセ氏百万度を超え巨大な火球が発生しました。火球は1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、強い熱線を放射し、大きな被害を与えました。 爆風による被  爆発の瞬間、中心は数十万気圧という超高圧となり、空気が大きく膨張し、強 な爆風が発生しました。その圧力は、爆心地から500メートルの地点で1平方メートルあたり19トンに達するという強大なもので、ほとんどの建物は押しつぶされ、人びとも吹き飛ばされました。  
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禎子さんの折り鶴
  禎子さんは2歳の時に被爆し、10年後に白血病と診断され、赤十字病院に入院しました。 病気の痛みに耐えながら、健康の回復を祈って鶴を折り続けましたが、願 いもかなわぬまま8か月の闘病生活の後、短い生涯を終えました
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白壁に残った黒い雨の跡
  爆心地から3.7km。爆発後、現の広島市域の東側と北東側を除く市域のほぼ全域と周辺部で放射性物質を含んだ黒い雨が降ったとされています。
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 遺品は語る
 一瞬にして街のほとんどが壊滅し、多くの尊い生命が奪われました。そのなかには、建物疎開作業に動員された中学生や女学生など、作業現場に遺品を残しただけで、遺体はおるか遺骨さえ肉親の元に戻らなかった人たちも多かったのです。  
 ここに展示されている遺品の多くは、肉親の人たちがその安否を気遣って、焦土の中を探し求め、見つけたされたものです。
 これら一つ一つには、人びとの苦しみ、悲しみ、怒りが込められ、このような悲劇が繰り返されることのないよう、静かに語りかけています。
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 1945年8月6日
 1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、人類史上初めて原子爆弾が投下されました。
 原子爆弾は、市街地の上空約600メートルで目もくらむ閃光を放ってさく裂し、爆心地から2キロメートルにおよぶ市街地の建物が跡形もなく壊され焼きつくされ、爆風や熱線などによって多くの人びとが亡くなりました。
 かろうじて生き残った人びとも、焼けこげて血みどろになったボロボロの衣服をわすかに身にやとい、瓦れきの街を逃げまどったのです。
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 東館
 ●なぜ開発したか?
 第二次世界大戦が始まった1939年(昭和14年)、アメリカは原爆の研究に乗り出しました。1942年(昭和17年)8月にはマンハッタン計画」と名付けられた原爆製造計画に着手し、1945(昭和20年)フ月16日、原爆実験に成功しました。
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 ●なぜ日本に投下することを決めたか?
 日本の戦況が圧倒的に不利な中、アメリカは戦争終結手段として、日本本土上陸作戦、ソ連への対日参戦の要請、天皇制存続の保証、原爆の使用という選択肢がありました。こうした状況の下、原爆投下により戦争を終結することができれば、戦後ソ連の影響力が広がるのを避けられ、また膨大な経費を使った原爆開発を国内向けに正当化できるとも考えました。
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● なぜ広島に投下したか?
 アメリカは、原爆の効果を正確に測定できるよう、直径3マイル(約4.8キロメートル)以上の市街地を持つ都市の中から投下目標を選び、その都市への空襲を禁止しました。そして、広島、小倉、新潟、長崎いずれかへの投下命令を下しました。その後、広島を第1目標としたのは、目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思っていたためです。
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 広島に投下された原子爆弾について
 原子爆弾は、ウランやプルトニウムが核分裂するときに発生するエネルギーを兵器として利用したもので、通常の爆薬に比べるとはるかに大きな破壊力をもっています。さらに、核分裂の際に発生するカンマ線や中性子線などの放射線は、長い期間にわたり人体に深刻な障害を与えます。
 広島に投下された原爆は、長さ約3メートル、重さ約4トン、開発当初の設計よりも短くしたためリトル・ボーイ(少年)と呼ばれていました。約50キログラムのウラン235が詰められていたとされていますが、このうちの1キログラムにも満たないものが瞬間的に核分裂し、高性能爆薬の1万6干トン分に相当するエネルギーを放出しました。
 原子爆弾は爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線を放射し、周囲の空気は膨張して超高圧の爆風となりました。これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
 強烈な熱戦と爆風は、爆心地から2キロメートル以内にあったほとんどの建物を破壊し、焼き尽くし、放射線による急性障害が一応おさまったとされる1945年12月末までに約14万人の尊い命が失われました。
 
桜花の絆
   
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