広島原爆記録
広島市郷土資料館(広島市)

*場所:広島市南区宇品御幸2丁目6-20
    (旧・宇品陸軍糧秣支廠:被爆建築)

*説明板
 広島市指定重要有形文化財(外壁・屋根・庇部分)
    指定:昭和60年4月22日 広島市教育委員会
現在広島市郷土資料館として利用されているこの建物は、明治44(1911)年竣工の旧陸軍糧秣廠のかんづめ工場を改修したもので、外壁は当時のものがそのまま保存されています。(広島)市内に残る他の明治時代の煉瓦造建築に比べ、外壁の控壁や庇部分の細かな造形に工夫が見られ、重厚な美しさを感じさせます。煉瓦は現在のものよりやや大きめで、すべて国産のものを用いており、長辺と短辺を交互に積む「オランダ積み」で積まれています。また、屋根は今回の改修で鉄板を銅板に改めているものの、当時の「瓦棒葺」の工法で復元されているまど明治時代の洋風煉瓦建築を理解するうえで貴重なものです。 明治27(1894)年の日清戦争の際、広島は、同年の山陽鉄道の開通や宇品港の存在などを背景に、大陸派兵基地として重要な役割を果たしました。これを直接のきっかけに、広島は軍事都市としての性格を強め。明治31(1898)年の軍用水道を手始めに、市内に数多くの軍施設が建設されました。この建物もそのうちのひとつです。
また、現在の建物中央部には、原爆の風圧によって曲げられたものと思われる2本の鉄骨が保存されています。原爆投下直後には被災者の臨時収容施設にもなっていたこの建物は、被爆の歴史を語る貴重な証人でもあります。
*工場の煙突 :陸軍糧秣廠宇品支廠として建設され、日露戦争後缶詰工場が造られた。

*工場には断肉場、煮肉場、製缶場、製品室などを備え最盛期には3,500人の従業員が働いていたが、戦争末期には他支廠への配置替えや疎開などで規模を縮小しており、被爆時に農作業に動員された学徒などもいたが人的被害は軽微であり、建物は爆風で窓の硝子を割り、屋根の鉄骨を曲げさせたるほどの力が加わったが被害も軽く、市内の被爆者救援にむかった陸軍暁部隊が多くの重傷者を支廠内に収容したそうです。
*戦後、缶詰工場を広島糧工が借り受け昭和52年まで操業していたが、その後放置されていました。
 昭和60年5月広島市郷土資料館として開館した。
 道路を挟んで北側の食肉処理工場は、戦後広島糧工が借り受け、次いでカルビーが引き継ぎ菓子生産工場として使っていた。しかし工場移転で平成19年解体された。今はマンションが建っている。

*左:常設展の一部
 「元軍船碇」

*右:特別展
 「広島市民と戦争」
 ある市民の従軍間の記録、戦没後の慰霊祭・葬儀等に関するもの。
桜花の絆
   
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