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備後護國神社 | ||||||||||||||||||||
鎮座地 広島県福山市丸の内9-2 (福山城北側) 御祭神 国家公共につくして殉じられた備後6市8郡内の御英霊31,415柱(昭和54年10月現在)と大彦命を主神とした阿部神社の御神霊とを併せて奉斎 御由緒(沿革):「社頭案内板「備後護国神社 御由緒 御神徳」」 当神社は、昭和32年まで阿部神社と称えていましたが、国家のために殉じられた御英霊を合祀した備後護國神社と合併して、社名を備後護國神社と改め、阿部神社の社名は亡くなりました。 阿部神社の建立は、文化10年(1813年)に時の福山藩主が、歴代の祖霊を祀ったのがはじまりです。 御祭神は、大彦命、武沼河別命(2柱とも四道将軍)をはじめ歴代藩主を御祭してあります。 御神徳は、御祭神のご功績によるもので、大彦命の開拓・平定による開運・家内安全・健康・厄徐等です。 歴代の中で特に阿部正弘公は、老中筆頭として国旗(日ノ丸)を制定され、嘉永6年(1853年)ペリー来航に当り、和親条約を締結し、日本の開国と、福山に誠之館を創設して、近代教育の基礎をつくられた教育の神様で、天満宮と並び尊ばれ、受験合格・学業成就の神として信仰されています。 例祭日 備後護國神社 10月23日 阿部神社 勇鷹祭 5月19日 |
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御由緒(栞): 明治元年 旧福山藩主阿部正桓公の創立で、戊辰戦争石見國益田の戦及び函館の戦に戦死した四十柱の英霊を祀ったのが始まり。 その後佐賀、台湾、西南の役、日清、北清、日露、日独の戦、満州、上海、日華事変及び大東亜戦争に至るまで國家公共のため殉じられた御英霊をお祀りしている。 最初は深津郡木ノ庄村(現福山八幡宮境内)に招魂社を建立、 明治26年7月福山公園地(現福山城跡)に移転し、同34年7月「官祭福山招魂社」と改称した。 昭和14年3月招魂社制度が改正され、広島県には特に二社が認定された。 備後國3市8郡(福山市、尾道市、三原市、深安郡、沼隈郡、芦品郡、御調郡、世羅郡、甲奴郡、神石郡、比婆郡)を祭神合祀範囲として、内務省令により「福山護國神社」と改称して指定を受けた 引績き福山市沖野上町地先に二万坪を得て大規模の神域と荘蔽な社殿の完成を見んとした矢先き空襲による戦災を受け、昭和20年8月8日石鳥居二基、神僑一基を残し一切を鳥有に帰した。(その敷地は、現福山市体育館) 戦後宗教法人令の施行に伴い占領軍の指示に従い「備後神社」と改称し、城跡にそのまゝ存置してあったものを「阿部神社」と合併し移転した。 昭和32年3月11日、新に「備後護國神社」として設立した。 尚、境内地及御社殿の大部分は阿部神社より無償譲渡されたものです。 昭和34年7月1日、神社本庁より別表神社加列の指定を受けた。 (参考:元阿部神社) 福山藩主阿部家の遠祖である大彦命及び御子武沼河別命と豊緯別命三柱の神を主神とし阿部家代々の祖霊を奉斎したものであります。 建立は八代藩主阿部正精公が文化九年七月久松城北にある小庄松山を開拓して工を起し翌十年六月竣工した。明治10年旧社名「勇鷹神社」を「阿部神社」と改称して県社に列格した。 |
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ホームページ : なし | ||||||||||||||||||||
質素だが威厳のある拝殿等、御英霊を厳かに祭祀している雰囲気を感じた。 阿部神社の時代には参道は南側にあったが、焼失した備後護国神社を移す際に参道石段を西側に移すとともに拝殿神門が建立された。そのため、西側から参拝するのが正式となるが、勿論南側からも参拝するのは可能である。 参道手前の敷地には、多数の慰霊碑が聳え立ち、これぞ護國神社と言う感じであった。 社務所が境内にはなく、南側の旧参道近くにある。 恐らく安部神社時代の社務所を活用したのであろう、 |
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境内施設 | ||||||||||||||||||||
【社殿への長い参道】 |
【御朱印】 |
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【側面】 |
【神門】 |
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慰霊碑等 | ||||||||||||||||||||
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