指定護國神社参拝記録
岐阜護國神社
鎮座地
 岐阜県岐阜市御手洗393
御祭神
 御祭神は日本の平和、郷土岐阜の平穏、家族の安泰を願い、尊い一命を捧げられた御英霊ですから、国難・家難、そして諸々の災禍の難を防いで下さいます。
 戦後60余年が経過し、御英霊も浄霊浄福なされ、今日では平和を打ち立てる神様、家内安全の神様として新たな御崇敬を戴いております。
御由緒(沿革)
 当神社は、昭和14年内務省令により、明治維新以来の郷土岐阜出身の戦没者の英霊をお祀りするために創建されました。
 明治41年7月に、岐阜市郊外(現長森地区)に歩兵第68連隊が大津より移管され、大正6年には飛行連隊の設置を見るに至り、累次の戦役事変に一身を国家に捧げられた御英霊に対し、感謝奉賽の誠を奉げるべき護國神社の無きを遺憾として、大正7年当時の第68連隊は岐阜県知事並びに市町村長又在郷軍人その他有志と共に、その実現を企画せるも時至らず、日支事変勃発と共に新に多数の御英霊を迎へるに及び、昭和10年護國神社制度が制定されたのを契機に2市10郡209ケ村の代表者が議り、昭和14年3月10日創立を出願、昭和15年11月社殿が竣工、同19日鎮座の儀、翌日幣帛供進の儀が執り行われ茲に岐阜護國神社が創建されました。
 現在今次大戦に至る37,800余柱の御英霊をお祀りしており、天に金華山を仰ぎ、前に長良川の清流を臨む山紫水明の地にあり、この創建に当っては県市町村、各職域団体よりの浄財及び勤労奉仕が寄せられ、文字通り県民の神社であり、県民の崇敬によって護持されております。
ホームページ http://www.gifu-gokoku.com/

 岐阜城のある金華山の麓に鎮座し、北側には長良川の清流がある山紫水明の自然に囲まれた地に遷座する。境内はあまり広くはないが、有効に活用し、幾多の慰霊碑等が建立されている。歩いて行くとすぐに境内から拝殿へと向かってしまうので、慰霊碑等が何処にあるのかよく分からない。駐車場の脇にあるので、要注意。
 河童堂というあまり慰霊を祀る神社とは関係のないようなお堂がある。社務所で聞いてみると「ここはもともと長良川の河川敷であり、古くから河童がいたという伝説から創建された河童大明神」だという。
 岐阜県には、飛騨護國神社、濃飛護國神社があるからだろう、社名に「縣」が入っていない。
 境内周辺の岐阜公園内に「満蒙開拓青少年義勇軍」の碑が点在している。
 但し、そこは又、日中友好公園となっており怪しげな文面の碑があり如何なものか?

拝殿等境内施設
【御朱印】 【拝殿】 【栞】
【駐車場側:一の鳥居から参道】 【歩行側鳥居:後方が金華山(頂上に岐阜城)】 【二の鳥居から拝殿】
【境内】 【拝殿】 【狛犬】
 
【長良橋から入る「参道」標】 【手水舎(歩行側)】 【手水舎(駐車場側)】
【神馬】 【御神田】 【かっぱ堂】
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【大八洲】
 大八州とは、日本の古称で日本の国土を表す言葉。当社の境内の庭には、大八州を見立てた庭作りになっており、祖国の平安を祈念し、我が日本の国生みの創成の姿を造形しています。
 「国生みの 稚き御神と御名を申し 事竟へ奉りて 大八州なる」

神苑大八洲
 金華山を蓬莱山に、長良川を曲水に見たて、戦国武将が夢かけた歴史の興亡の地に創られた当園は、祖国平安を祈念し、我が日本の国生み創生の姿を造形した現代の名園として、有名であり、ドキュメント映画 大八洲(主演/片岡仁左右衛門、語り/岸田今日子)も制作され好評を博しております。(栞より)
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鎮霊社
 この御社には先の大戦の戦没将兵の他にも空襲や海外移住民などの多くの犠牲者が祀られています 人は誰しもが その所を得て祀られねばなりません 友敵恩仇を問わず 不祀怨念もいまは解脱供養し万霊を浄斎して大平を祈ります 正殿の御英霊も靖国なす神と転生され安心されますよう鎮魂の御社です
 霊社は伊勢の神宮古殿賜材・霊像に大秡詞と般若心経・床下には戦跡地よりの収骨・遺品を納めた家郷の墳墓です。
   昭和53年終戦33年忌建立

* 戦没御英霊以外の戦争災禍の犠牲者(内地の空襲・海外移民敵味方を問わず)及び、無縁の遺族や、御遺骨をお祀りしている。(HP)
*社名碑の裏の文
  終戦三十周年ヲ記念して神苑を築造ス
  昭和五十一年八月十五日  設計、施行、刻字者の名前 銘題題字:胡蘭成
  社名碑献納者:元比島派遣・幸5742部隊、據10623部隊 戦友会本部、岐阜・西北濃・西濃・羽島・中濃・加茂・東濃地区支部(各氏名あり)
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  「泰安殿」
* 霊璽簿泰安殿と言い、耐火耐震造りで、御英霊の霊璽簿(名簿)をお護りする社。
天皇陛下御製 歌碑
 川の辺に あまたの人のつどひ来て 振るともしびを遠く望みぬ
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 「招魂祭場」
*御英霊を御本殿にお祀りする祭に行う合祀祭に使用する場所。
祭場中心にある美しく苔むした岩を磐座に見立て、御英霊の御霊をお招きする。
【青年 日本の歌】
慰霊碑等
明治大帝像 (岐阜公園:歩行者側鳥居の左側)
 明治天皇は御名を睦仁、御幼稱は祐宮と申し、孝明天皇の第二皇子として嘉永五年九月二十二日(陽暦十一月三日)京都御所朔平門外の権大納言中山忠能邸内後産所に於て誕生せられた。 御生母は忠能の女、従一位勲一等中山慶子である。万延元年七月十日准后夙子(後の英照皇太后)の御子として儲君に治定せられ、次いで九月二十八日親王宣下を受けられ、慶応二年十二月御父天皇が崩御されるや、翌三年正月九日践祚せられた。 時に御年十六である。 翌四年八月二十七日即位の禮を挙げられ、同年九月八日明治と改元あり、御在位四十六年に亘られたが、明治四十五年七月三十日御年六十一を以て崩御せられた。 翌八月二十五日御追號を定めて明治天皇と稱し奉り、九月十五日御遺旨によって、京都府紀伊郡堀内村大字堀内字古城山(京都市伏見区桃山町古城山)に斂葬し奉った。 御陵名は伏見桃山陵と申上げる。 「御資性英武厳明にあらせられ、而して善く侍補耳に逆ふの諫を嘉納し給ふ、是れ眞に寛仁大度の君徳に適はせ給ひて大舜太宗に揆を同うし給うなり」とは侍講元田永孚が納諫の御盛徳を稱揚し奉った語である。
     御製 述懐
    いにしへのふみ見るたびに思ふかな  おのがをさむる國はいかにと

* 明治大帝崩御御百年のこの年に明治大帝のご偉功を後世に末永く継承することを旨として昭和四十七年に岐阜公園戦場敷に建立された明治大帝像を「明治大帝崩御百年聖像移設委員会」の提言により多くの方々に親しんで頂けることを願いこの地に移設する
  皇紀 弐千六百参拾弐年  西暦1972年  昭和47年7月30日
      明治大帝聖像建立奉賛会
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 【岐阜県戦歿者慰霊塔
 この慰霊塔は日清戦役以後太平洋戦争に至る間に日本の繁栄と平和を念じ戦陣に散華されあるいは戦禍にたおれた人々の霊を慰め後世永くその遺芳を伝えるため岐阜県民の総意によって建設されたものである
     昭和三十一年十一月
      岐阜県戦没者慰霊塔建設委員会

(世界の平和を願って)
 この慰霊塔は昭和三十一年十一月に建設されたものであるが長い年月の経過とともに老朽化したためここに世界の平和を願い全面改修したものである。
    平成五年六月
      岐阜県戦没者慰霊塔改修委員会
拓魂:満蒙開拓青少年義勇軍伊藤中隊之碑】 (岐阜公園:明治大帝像左側)
  満蒙の  野に鍬とりし開拓の  勇士の夢を  とわに忘れじ
* 碑文
 昭和17年3月5日満蒙の曠野に開拓を夢見 小さな胸に大望を抱いて第三次岐阜中隊を編成 中隊長伊藤喜馬太氏外二百八十九名 茨城県内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入所 同年四月二十七日親兄弟と別離の哀しみを胸に秘め曠漠たる満洲の地四平省昌図青年義勇隊訓練所に入所 夏は水沸く猛暑に悪疫と闘い 冬は零下三十余度の酷寒をものともせず農事に亦軍事訓練に励み一意祖国日本の為と信じつゝ互いに励まし助け合い 昭和二十年三月 三ヶ年の義勇隊訓練を模範中隊として修了した
 その後大東亜戦争酣と成り一部は軍奉仕に出動他は銃と鍬を肩に氷雪未だ解けやらぬソ満国境 虎林県五十鈴開拓団に入植 開拓精神に則り日夜健闘したが同年八月十日未明突如ソ聯軍の参戦により我等の夢は空しく破れ去り宝西城外にて最悪の戦闘状態となり中隊長外若い義勇隊員四十九名 父母を呼びつゝ異国の夏草を血に染め散った同志のなきがらを手厚く葬むる事も出来ず心ならずも二十有余年の歳月は流れた
 幸い 我等無事帰国した者 会い集い茲に同志の冥福を祈り永遠にその栄光を称えて故郷の地にこの碑を建立する
  昭和四十一年三月    伊藤中隊帰還者一同
* 追碑文
 雄途心ざし、満蒙開拓青少年義勇軍として国策に呼応し、華々しく満蒙の荒野の地に移住し、希望の達成に全魂を傾け、食糧増産、軍事訓練にいそしむも、戦局は悪化し敗戦の終結となり、志し半ばにして戦後九死に一生を得て帰郷し、国土復興に、又自らの生活のため苦難に打ち勝ち最善を重ね、今日の繁栄ある郷土と社会を築き挙げ、ここに歓喜に満ちた人生を期して居ることに万福の感がある。
 時を追憶すれば日時の経つのは早いもので、渡満半世紀を得る年齢を重ねてきました。
 ここに生ある者として、残れる同志拓友は、五十周年を記念として現碑に無き友の銘記、併せて生存者の拓友名を刻み、永遠の拓魂に追碑を建立するものである。
   平成四年四月吉日    五十鈴拓友会生存者同志
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 【陸海軍人ニ下シ給ヘル勅諭の碑
 一 軍人ハ忠節を盡すを本分とすへし
 一 軍人ハ禮儀を正くすへし
 一 軍人ハ武勇を尚ふへし
 一 軍人ハ信義を重んすへし
 一 軍人ハ質素を旨とすへし
   留守第3師団長陸軍中将曽田孝一郎 謹書

 此の軍人勅諭碑は昭和四年の済南事変後稲葉郡鏡島村の小学校正門附近に建立されて昭和二十年八月終戦により占領軍の達示で撤去された。当時の銘版は不詳 以後三十年余は各務原市芋ヶ瀬の左高正市氏の石材置場にあり 通心会小谷康夫氏等が発見 六八の集いぼたんの会が再建を議して当社創建四十年記念に奉納す。此5ヶ条は天地の公道人倫の常経と勅を捧持し戦に斃れ病に死したる戦友に由縁を誌しての志なり

 元陸軍第六十八連隊 六八の集いぼたんの会  昭和五十五年五月4日 建立
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 【平和之碑:岐阜県フィリピン慰霊碑
 岐阜県フィリピン慰霊碑建立奉賛会により、昭和54年5月7日、比島ルソン島リサール州モンタルバン町に建立除幕された。
 「岐阜県出身戦没者慰霊碑」「主碑」を周辺環境の変化、遺族、戦友の高齢化等による慰霊巡拝の激減により、将来の慰霊碑の管理等を考慮し、慰霊碑「主碑」を撤去し、ご英霊を郷土岐阜県へお帰り願うこととし、平成16年4月、ご英霊お迎えの慰霊巡拝を行い、4月20日現地で還霊祭を斎行し、碑の撤去を行ったものである。
 この「平和之碑」は、撤去された「主碑」の銘板であり、岐阜県へ持ち返り、平成16年7月18日還幸祭を行い、ここに安置するものである。

 なお、レイテ島に建立してある「副碑」は、現地オルモック市により日比親善の碑として永久管理されます。
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郷国思慕 防人像
昭和の戦いは万葉のむかしから、うたい継がれた海ゆかばで兵士は出征し、大君の辺にこそ死なめの歌さながらに散華されました。 防人はその兵士の古称です。

  昭和五十九年五月十三日 寄進
  発起 サイパン、テニアン遺族会

*防人とは御英霊のことで、ここではサイパンのバンザイクリフに見立て、御英霊が遠く日本の未来を信じ、玉砕する様子を表している。(愛知文明作)
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 【国旗掲揚台 岐阜新聞社献納
(銘板)  宣揚皇道   陸軍大将松井石根書
慰霊記念樹
 「散る花の 香るや児孫の ある限り」
平和一神】
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平和祈念の碑:傷痍軍人
 本年は 先の大戦の終結より50年になります
 苛烈を極めた戦争を身をもって体験し 二度と戦争を繰り返さないよう 傷痍軍人は心より願っております
 戦後の荒廃と苦難の道から立上がり 祖国日本の復興に心血を注ぎ筆舌につくせぬ苦労の上 今日の繁栄を迎えたことを誇りとし 平和の大切さを後世にわたり訴えるため ここに日本国及び世界の恒久平和と繁栄を希求する証として 平和祈念の碑を建立します

   平成七年十一月
     財団法人 岐阜県傷痍軍人会
     平和祈念の碑建設委員会
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「拓魂」満蒙開拓青少年義勇軍 田中中隊之碑
 昭和19年3月若冠14才の少年我等232名は昿漠たる満蒙の原野に理想の開拓団を建設すべく第7次岐阜県田中中隊を編成その名満蒙開拓青少年義勇軍として茨城県内原訓練所にて2か月間の基礎訓練を終え同年5月勇躍渡満ハルピン訓練所に入所するや夏は熱砂の昿野に鍬振い冬は厳寒の国境に警備の銃を執る
 時折りしも大東亜戦争は益々危急を告げ拓友150名は同20年4月及び6月の再度にわたり軍命により戦時勤労挺身隊として奉天市満洲車輌株式会社に派遣され鍬持つ手にハンマーを握り兵器増産に努め残りし友は訓練所に在りて食糧増産に励む
 忘れ得ぬ日昭和20年8月15日戦局利あらず国破れ少年柘士の夢は悉く水泡に帰す我等ここに国の庇護なく同胞の愛の手薄く望郷の念日々に高まり加えて酷寒零下30度の冬季を迎う迫り来る寒気と飢餓は恐るべき悪疫伝染病と相まってあたら若き命を次々と奪い我が友41名は思いを遥かな祖国に馳せ父母の名を呼びつつ遂に異国の土と化す
 亡友の霊靖からんと願いながらも徒らに過ぎ去りし二十幾星霜今ここに生ある拓友相起ちて逝きし友の冥福を祈りその拓魂を永遠に称えんとこの碑を建立す
    昭和四十三年四月  田中中隊帰還者一同
(副碑)
* 岐阜県選出第七次満蒙開拓青少年義勇軍田中中隊は 生死をかけた中国における きびしい歩みを 青春の道程 として永久にとどめる
* ひぐらしを聞きつつ滝の しぶきうく 拓魂の碑に 祈りささげり 碑のうらの隊員氏名 たどりゆく 往事の姿 まぶたに浮べて 
*田中先生略歴
 1915年土岐市に生まる。
 1936年岐阜師範卒、1976年土岐市立泉中学校長退官まで教職ひと筋40年奉職。 この間1944年満洲開拓の志に燃える県下の少年230余名を引率自ら中隊長として満洲開拓青年義勇隊ハルピン訓練所に赴く。義勇隊創設以来最若年(29才)の中隊長ながら訓練生の指導に心血を注ぎ訓練本部長から全満義勇隊の最優秀中隊と賞賛を受く。1974年海外引揚げ功労、外務大臣表彰。
  平成六年十二月吉日
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拓友之碑:横山中隊
 

 今時大東亜戦争熾烈の半昭和18年錦秋我々満蒙開拓義勇隊岐阜県中隊は日本民族繁栄の一翼として墳墓の地に袂別し勇躍渡海爾来現地の酷寒酷暑と闘いつつ開拓に専念す 然るに図らんや戦争の終結に遭遇しその夢と事業は遂に水泡に?し死亡或は雄図空しく生還し今日に至る
而して戦後二十星霜を閲したる現在と雖も吾々愛国の至誠は不変?まして母国の永遠の平和と郷土発展に努力せんことを誓い併せて義勇開拓精神の同志の魂の寄り処としてこの聖地を選び記念の碑を建立す

   昭和四十年八月十五日
    旧横山中隊 朋友会一同
      教士   馬渕 勲 文
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満蒙開拓青少年義勇隊栗田中隊
 昭和16年3月美濃若人弐百余名茨城県内原訓練所に満洲開拓義勇隊栗田中隊を編成 同年6月渡満浜江省一面波訓練所及び北安省鉄驪訓練所に多年開拓訓練に励む 19年4月永住地北安省綏稜県南長英屯に入植第4次岐阜義勇隊開拓団生まる 20年8月太平洋戦争終戦 団は解散の悲運 幾多団員は業ならず開拓の礎石と仆る 茲に生存者集ひ殉難同志の霊を慰め開拓の雄図を永く後世に伝う

   昭和36年9月吉日 
   岐阜義勇隊開拓団生存者一同建立
* 栗田会のあゆみ
 風雲急をつげる昭和16年3月当時の国策であった 満洲國建設の使命と新天地開拓の夢と希望に燃え 県知事始め各市町村長より激励の言葉と祝辞を受け 県民からは日の丸の旗と歓呼の声援で見送られ岐阜県郷土中隊として日本を後に大陸に渡ったのである 年齢は八割強が14才の少年であった
 記 
昭和16年3月8日  満蒙開拓青少年義勇軍として 茨城県内原訓練所に入所した 第3大隊第13中隊に編制された 中隊長は栗田英太郎
昭和16年6月     敦賀港より渡満の途につく元満洲国浜江省珠河縣一面波 一面波訓練所に入所した
昭和16年7月    一部留守隊員を残し関東軍特別演習勤労奉仕隊として ソ連国境近くの軍務についた
昭和16年9月    軍勤解除で鉄驪に移行となった 北安省慶安県鉄山包 鉄驪訓練所 第5大隊栗田中隊
昭和17年       大半の隊員は農作業と軍事訓練が日課となる 約50名は将来の村造りに備えて特殊技能修得の為訓練本部特科隊に編入された
昭和19年春     北安省綏稜県北黒馬劉へ 第4次岐阜義勇隊開拓団として入植した 草葺き掘立て小屋の住居建設から村造りを始めた 村造りの進んでいる隣村の四国村に種々便宜を受けた 十余名が技能修得の為派遣された
昭和20年5月    昭和18年頃より年長者から現地現役入営した  20年5月には一度に70余名が入営した 団に残った拓友は43名となった
昭和20年8月    ソ連が参戦し国境を越えて進攻して来た 日本國敗れて終戦となる その間にも 召集令状が来て一時は二百余名居た同志が 栗田団長他男子が7名女子子供5名となった 最後の入営者が即時帰団で43名となった
昭和20年9月    団本部襲撃を受け付近の開拓団と共に四国村開拓団に集結した 四国村も襲撃を受け死亡者28名 我々同志からも負傷者が2名出た
昭和20年10月   四国村を出て過酷な避難民の旅が始まった 哈尓浜市に向けて南下 途中ソ連軍に連行されシベリヤ行きになった者が3名居た この頃5月の入営者の大半はシベリヤの収容所に送られ厳寒と食料不足や強制労働で苦労した
昭和20年10月~翌年8月 この間哈尓浜で生活するも 不衛生と栄養不足 マイナス30度を越す寒さでほとんどの者が発疹チブスにかかり生死をさまよう日々であった この時岐阜市出身の高井勇氏と知り合い世話になった 病気を克服した者から 思い思いに中國人の住み込み働いた
昭和21年8月   哈尓浜を出て新京 奉天の難民収容所を経て 南下コロ島へ集結した
昭和21年10月  夢破れて避難民の姿で帰国した 帰国早々高井氏の発案に協力 栗田の同志により岐阜駅前に ハルピン街を建設した これが岐阜市のアパレル産業の源となった 事は岐阜新聞の「終戦から半世紀」の連載記事に紹介されたとおりである
昭和21年~24年 一部中途で進路を変え離農した者も同じく入営しシベリヤに多くが抑留されシベリヤ収容所で苦労した者も逐次帰国祖国の土を踏んだ
昭和27年      戦病死等で不帰の人となった同志の第1回慰霊祭を行ない次年度からは各地で会合を開き旧交を温めた
昭和36年      拓友同志の霊を祀るため 尊い浄財を集めて慰霊塔を金華山水道山に建立した 爾後9月に慰霊の会を催す事を決めた
昭和48年9月    栗田会として発足した
平成元年       四国村引揚者と交流が始まり旧交を温めた
平成3年       栗田会の会員による渡満50周年を記念し思い出の書「青春の追憶」を発行した  日中友好訪中団を結成し栗田会の有志が昭和57年61年と平成3年に訪中し ゆかりの地を訪問残留孤児と対話激励等を行った。
平成7年      終戦後50年水道山からこの地に再び浄財を募り慰霊塔を移設併せて追碑を建立し慰霊祭を行ない生存者の念願を叶えて今は亡き拓友に心から哀悼の誠を捧げる
     平成七年九月吉日      栗田会生存者一同

(追碑)
 昭和の歴史に残る五十有余年前昭和16年国策としての大事業に僅か14 5歳の少年が中国東北部旧満州に 満蒙開拓青少年義勇軍として我ら栗田中隊二百有余名は 鋤 鍬あるときは銃を手に王道楽土の建設 五族共和の夢を胸に北満の地に渡りしが 図らずも昭和20年敗戦に夢破れ九死に一生を得 裸一貫で帰国 戦後の荒廃した社会のなかで郷土復興 自活の為と根性で恵まれた郷土社会を築き上げた 不運にも異国の地に骨を埋めた拓友同志の霊を祀るため 昭和36年金華山中腹に慰霊塔を建立 慰霊祭を行い青春を追憶慰霊し歓喜してきた今日 年老いて金華山での慰霊祭も至難となり 寂しさを痛感するとき岐阜公園に移設することとなった
 この機を記念し拓友同志の名を刻み 後世に記す追碑を建立す  拓友生存者の念願を叶えた戦後半世紀の記念すべき年である
   兵戈無用  世界はひとつ
    平成七年九月吉日      栗田会 拓友生存者一同
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