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北海道護國神社 | ||||||
鎮座地 北海道旭川市花咲町1-2282-2 (陸上自衛隊旭川駐屯地前) 御祭神 明治戊辰の役以来大東亜戦争に至るまで北海道及樺太関係の国事殉難者 六万三一五四柱(平成27年6月現在) その他 *境内:19,455坪(64,200平方米) 原始の樹林を保存。北海道池・樺太池の樹泉の美を擁する *例祭日:6月5・6日 宵宮祭(合祀祭)に始まり5,6両日に亘るが全道より数万の参拝者を迎え、旭川市内は祭典絵巻一色に塗りつぶされ、祭儀の規模亦盛大にして厳粛荘厳を極める。 *献灯みたま祭:8月13日~17日 社頭に灯篭を灯し、舞楽・舞の奉納を致し、今日の平和の為に尊い命を失った6万3千有余柱の誠を捧げお慰め申上げる。 |
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御由緒(栞・HP): 本神社は遠く明治三十五年五月五日時恰も日露の風雲急なる最中に旧第七師団長大迫尚敏氏主祭の下に練兵場に小祠を設け北海道に於ける国事殉難者並開拓に殉じた屯田兵の招魂祭典を挙行したのに好まる。 日露戦争勃発するや我が北鎮師団は旅順の攻撃奉天の大会戦に参加し、勇名を謳はれたが、その戦歿者は無慮四千五百名に及び戌辰、西南、日清の諸役の戦歿英霊に加えて五千柱に垂んとするに至ったのでここに社殿創建の議が興り、明治四十三年時の第七師団長上原勇作並北海道長官河島醇両氏の発起の下に道内有志の賛助を得て、現在地に社殿を建築し之等英霊を祀り爾来毎年六月五、六日を例祭と定め、師団長、長官交互に祭主となり軍官民挙げて盛大な祭典を執行し来っか。 かくて昭和時代に入るや境内狭隘を告げ、社殿亦腐朽して本道随一の招魂場として遺憾の点尠からざるため、昭和十年師団長杉原美代太郎氏・長官佐上信一氏等全道六十八名の要路の人々が発起の下に道内より浄財を募りよく所期の目的を達成し昭和十年四月二十六日北海道招魂社として内務大臣より指定され神徳いよい遍くするに至った。昭和十四年四月一日官制の改まる処により北海道護国神社と改称し、更に社頭の整備を進め、茲に全道の英霊の総祀社として名実を兼備するに至った。 昭和六年満州事変以来支那事変はもとより、昭和十六年十二月八日大東亜戦争の勃発するや、北鎮の将兵は或は極北のアッツ島に或は灼熱の大陸の曠野に、或は南海の孤島に、或は洋上に、大陸に勇躍征途に上って祖国防衛の任に当り、第二次世界大戦の最終戦争たる沖縄の玉砕に至るまで実に五万五千柱の尊い身命を祖国に捧げられたが、英魂は永遠に故郷のこの御社に鎮まり給うた。 昭和二十年八月十五日大東亜戦争の終結を見るや占領政策の然らしむる処により神社の存立すら危殆に瀕する悲運に際会したが祀職並関係者命を堵して之を護持し祭祀遂に一日も滞ることかく国家独立の後は道民崇敬の至誠は澎湃として興り、その例大祭の如きは今や全道の一大祭典として盛大を謳はるるに至った。然るに終戦後合祀する英霊は実に戦前の十二倍に及び樺太関係英霊の合祀者も数を増し、社殿の狭隘年次その度を加えるに至ったので昭和三十五年四月造営奉賛会を結成し町村金五氏(知事)を総裁に再び全道市町村より浄財を募り茲に社殿の大改築をなし昭和四十年四月完工した。その後、廻廊屋根銅板に葺替、神池の改修、本殿以下各所の修理総塗替、更に長年の懸案であった旧兵事記念館をその名も平成館と改めての大改修を行った。 平成二十三年御創祀百十年をむかえ、これを記念して御本殿以下各所の屋根銅板葺替工事、また各所の修理総塗替、石畳の貼替工事等を五ヵ年の計画を以て着工し、平成二十六年五月無事完工した。 (栞) 境内の広さは約二万坪原始の巨木は亭々として天を摩し、林泉は北海道、樺太両池があり、地下200米より吸上げたる真清水を満々と湛え英霊に捧げ、神苑には戦前各市町村より献ぜられた樹木は翠緑滴り、その中に丹碧の塗装を施した壮麗な社殿を構えている。 社殿の総坪数は約五百坪、典雅な総「流れ造り」に統一し緑に映え、雪に照り輝き四季を通じて美しい。 昭和三十八年造営中にあたり宮内庁より旧二重橋御旧材の御下賜も頂き社殿前の高欄として設置、光彩をそえている。 |
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ホームページ : 北海道護国神社 |
確かに境内の広さ、社殿の壮麗・荘厳さは他の護国神社を凌駕すると感じた。旧軍時代、第7師団所在地であり、当時は北海道の中心地として繁栄した事実により、北海道の最大の護国神社として運営されてきたと言うことであろう。 隣のスタルヒン球場からは高校野球が始まった時期で大きな歓声が聞こえたが、護国神社の境内は静かで、落ち着いて参拝することができた。 思ったよりか慰霊碑等が少ないなと感じたが、この点は札幌護国神社に譲ったのであろうか?棲み分け? 国道を挟んで、自衛隊の「北鎮記念館」とちょうど良く一体感を感じた。 |
拝殿等境内施設 | ||||||||||||||
【拝殿内】 |
【御朱印】 |
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【神門内境内】 |
【第一鳥居・社号標、奥に第2鳥居、社殿】 |
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【御製】 |
【碑文】 「御製」 あめつちの神にそいのるあさなきの 海のことくに 波たゝぬ世を 「御歌」 やすらかに ねむれとそおもふ 君のため いのちさゝけし ますらをのとも 畏くも 天皇陛下 皇后陛下には昭和43年初秋北海道百年にあたり本堂に行幸啓の御砌、9月3日親しく御車を社頭に寄せられ篤き御拝を賜り慰霊の聖恩に浴したことはまことに光栄感激の極みであった 仍って本年当神社創祀70年を卜し全道より奉賛の誠志を結集してこの碑を建て深き大御心を永遠に傳へ謹んで奉斎6万1千余柱の英霊に捧げる次第である。 御製は昭和18年歌会始の勅題朝海の御詠 皇后陛下の御歌は昭和12年11月戦歿者に賜ったもので共に侍従長入江相政殿に揮毫していただいたものである。 昭和46年9月3日 北海道護国神社宮司 藤枝弘大撰文 法学博士 村上茂利謹書 |
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【御製:奉祝天皇陛下御在位六十年】 ふる雪に こころきよめて 安らけき 世をこそいのれ 神のひろまえ |
【二重橋高欄】 この高欄は皇居の象徴として長い間親しまれてきた旧二重橋の御材にして昭和38年10月当神社造営中に宮内庁よりお下げ渡しになったもので、明治の文化的香気をしのぶよすがとして貴重である。 |
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【手水舎:御手洗石「金剛」】 手水用の石は、昭和16年夏大旱魃の時、神居古潭の河底深く発見されたもので、金剛と言う。 激流奔湍に洗われてそも幾千万年、自然の造形はまことに見事である。 |
【参集殿】 |
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【北海道招魂社 社号標】 |
【北鎮安全神社:境内社】 昭和43年開道百年を記念し交通及産業の安全祈願社として創建 |
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【平成館】 | ||||||||||||||
【平成館:旧陸軍第七師団北鎮兵事記念館】 明治35年、旭川に設置された旧陸軍第七師団はその後都市発展に重要な役割を果たしたが、この旧記念館は軍都の象徴として昭和11年に会館(まま)し、昭和20年まで多くの戦いの記念品を展示する館として使用された。(昭和20年連合軍の指示により廃止)その後は旭川市の郷土博物館として昭和43年まで市民に親しまれ、昭和25年の北海道開発大博覧会では宗教文化会館として多くの道市民が訪れた。平成3年、北海道護国神社90年記念事業として保存を目的とする大改修をなし、これを期して「平成館」と改名し建設当時の姿を今に伝える。 近年、旭川市内の開発が進み古い建築物が取り壊されるなか、白亜の殿堂として現存するこの館は伝統的な社殿建設の意匠を鉄筋コンクリート造りに導入した試みは昭和初期としては特殊な工事で、市内でも文化財的建物として重要である。 平成27年、歴史的・文化的価値が認められ、文化庁より国の「登録有形文化財」として登録された。 北海道護国神社では、平和都市である旭川市の貴重な財産として後世に伝える建造物として保存するものである。 平成27年6月 北海道護国神社 |
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慰霊碑等 | ||||||||||||||
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