指定護國神社一覧表・参拝記録
函館護國神社
鎮座地
 北海道函館市青柳町9-23 

御祭神

 戊辰の役、函館戦争より太平洋戦争に至る函館市・渡島支庁・檜山支庁・後志支庁(一部)管内の戦没者 1万3千余柱

その他
*境内は約6千坪。潮見丘の見晴らしの良い境内に鎮座。

*境内の内苑は芝生で、随時「芝神楽」「芝雅楽」を上演する。

*祭典: 例大祭:5月11日
 
御由緒(沿革):(栞)
 明治2年5月11日に函館戦争の官軍(新政府軍)勝利が決定、5月18日に五稜郭開城、5月21日大森浜で招魂祭を執行。さらに兵部省によって招魂社が創建され、9月15日から三日間盛大な祭典が執行された。
 その後、招魂社は開拓使に引き継がれ明治7年に官祭招魂社となり、昭和14年法令により内務大臣指定の護国神社となった。
 昭和21年10月1日GHQの神道指令により社号を潮見が丘神社と改称。昭和29年11月1日社号を函館護国神社に復称する。
 昭和29年の台風により御社殿、社務所、境内樹木が大きな被害を受けた。
 昭和33年7月7日皇太子殿下御参拝。幣帛料御下賜。
 平成2年11月1日御鎮座百二十年記念事業として御社殿の部分修復、社務所改築、付設建物新築、大鳥居を建立する。
 

御由緒(社前案内板)
 明治2年、函館戦争が終わって、兵部省は新政府軍の戦没者を慰霊するために、招魂場を造営した。場内に「招魂場」という大石があるのは、その時のものである。
 同年に招魂社となり、昭和14年に護国神社となった。
 現在の社殿は昭和17年に完成したものである。
 ここには、函館戦争以降、西南の役、日清戦争から第2次世界大戦に至るまでの、戦没者の霊が祭られている。
 境内には新政府軍戦没者の霊や慰霊碑などがある。
 ホームページ :   函館護国神社  
 函館の名所である函館山の麓 ロープウェイ乗場近傍に鎮座している。函館の観光コース(観光案内)にも組み込まれているので、他の護国神社に比較して一般の参拝者が三々五々参拝されていた。
 各種の碑や、新政府軍墓地等にはあまり関心が無いように見受けられた。恐らくどのような趣旨の神社なのか認識せずに敢行の一環として普通の神社の一つとして参拝しておられるのだろうが、来ていただくだけでも御英霊は喜んでおられるでしょう。
 その方たちは、参拝後は社務所で御朱印をいただく人、或は社務所前の「なでるふくろう」をなでながら写真を撮る等楽しんでおられた。
 社務所は立派ですが、対応の窓が小さくて参拝者との距離感を感じたのは残念でした。巫女さんの姿ではなく、一般服の方のみだったのも意外だった。

 函館護国神社は、札幌・旭川の護国神社に較べると監修墳墓(新政府軍墓地)あること等を含めて「函館戦争」を主としているイメージが強かった。
拝殿等境内施設
 【拝殿
 【御朱印】
  【絵馬殿:社殿左翼】
 【社号標:護国神社案内板】
 
護国神社坂:
 別名「汐見坂」ともいい、昔は「招魂社の坂」とも「倒産坂」ともいった。汐見坂は坂上に汐見町ができ、その町名からとったもの。
 招魂社の坂は明治2年に建立された招魂社(現護国神社)に登る坂ということから呼ばれ、現在の名になった。
 倒産坂は坂に面して門を立てると罰が当たって”かまど”がつぶれるといわれ、昔は坂に面しないようにした。
 【大鳥居:石段:社号標】
 

護國神社の献詠和歌の撰者:
 「 人恋し遠山の雪ほのぼのと春の夕日に茜さす頃 」
官修墳墓(新政府軍の墓地)  
  場所:
 函館護国神社の右側:社殿と社務所の間の奥

概要:
 所謂、官軍墓地。59基の墓碑。

*明治戊申己巳の役で戦没した弘前藩、大野藩、備後福山藩等の将士を葬っている墓

*「明治戊辰己巳海軍戦死者弔碑」、「戊辰薩藩戦死者墓」、が個人墓の奥にある。

上欄「官修墳墓」をクリックして下さい。
慰霊碑等
 各慰霊碑名をクリックして下さい。各碑のページにリンクしています。 
招魂場
少年海員之碑
帝国海軍駆逐艦「橘」鎮魂の碑
鎮魂碑
 【大地への献身
【 二十七八年戦役従軍烈士弔魂碑
護国神社
   
inserted by FC2 system