指定護國神社一覧表・参拝記録 
京都霊山護國神社  
  鎮座地
 京都府京都市東山区清閑寺霊山町1

御祭神
 霊山官祭招魂社に於て奉祀せる祭神は549柱であって、古くは天誅組の首将中山忠光卿を始めとし梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、月照信海、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九市、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎、平野国臣、宮部鼎蔵、真木和泉守等その功績は人の能く知るところである。
 東福寺、大雲院、泉涌寺の官祭招魂社及び明治41年までの合祀を含め勤王の祭神数は1356柱である。
 爾来日清、日露、満州、支那、大東亜の各戦役に戦歿せる英霊を合祀し今日に至る。
 (平成13年10月13日現在の祭神数は73011柱である)
御由緒(沿革)
   明治元年(慶応4)、明治天皇から維新の殉難者の御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域に祠宇を設けよとの詔が発せられた。山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が京都の霊山にそれぞれの祠宇を建立したのが、各藩の招魂社であり起源である。
 当初の社号を霊山官祭招魂社と称し、社格にはとくに「官祭社」に列し国費で営繕されてきた。ついで明治十年には皇室より巨費が下賜せられて神域が整備され、全国招魂社のうち、最も崇敬を集めた。

 昭和4年6月、御大礼の大甞宮付属御建物を御下賜、本殿及び拝殿を建立した。
 昭和11年(1936年)、支那事変をきっかけとして京都府出身者の英霊を祀ろうと、霊山官祭招魂社造営委員会が組織され、境内を拡大して新たに社殿を造営した。
 昭和14年4月1日、郷土出身の英霊を奉祀するために、各道府県に護国神社を指定することとなり、『京都霊山護国神社』と改称せられた。

 昭和21年、社号を「京都神社」と改称、同27年9月17日、社号を「京都霊山護國神社」に復称した。

 霊山地域内には「維新の道」として坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允をはじめ蛤御紋の変・天誅組の義挙等に加わった志士達の墓三百余墓があり、一三五六柱が合祀されてあり、この地は明治維新を偲ぶ大霊域・史跡である。
 また、「昭和の杜」には、京都に関係する大東亜戦争において戦った各部隊の従軍紀念之碑、パール博士顕彰碑等が建立されている。

*「維新の道」
 慶応4年(明治元年)5月10日の太政官布告により、一身を国事に捧げた維新の志士等を祀るため、我国初の官祭招魂社(現京都霊山護國神社)がここ霊山の地に創建されました。そして明治9年以降、大政奉還の記念日である10月14日に大祭が行われていましたが、第二次世界大戦後にはそれが途絶え、あたりは荒廃したままになっていました。
 明治百年にあたる昭和43年、有志によって発足した霊山顕彰会の手で付近一帯が再整備され、昭和45年10月14日を期して、この付近が維新変革の原点と現代を結ぶ精神の道として、「維新の道」と称されるに至りました。石碑の字は、霊山顕彰会初代会長松下幸之助の揮毫によるものです。
 ホームページ :     京都霊山護國神社  
 京都東山の観光地の一角を占め、正に護國神社発祥の地とも言えるような雰囲気のある神社である。
 参拝者も多いが、その多くは明治維新の志士達の墓域「維新の道」参拝である。神社の姿勢も「維新の道」を売りにしているようである
 「昭和の杜」地域もあり慰霊碑も整然と建立されているが、参拝者の多くは、素通りに近く、大東亜戦争等近代戦に於ける御英霊に敬意を表すことに欠けている感じがしたのが残念である。
 「維新の道」へは拝観料が必要である。「昭和の杜」の内、各部隊の慰霊碑の多くは社殿の左側に整然と建てられ、自由に参拝できる。パール博士顕彰碑及び一部の慰霊碑は「維新の道」の帰路沿いに建てられている。
 また、志士の眠る墓地には、陸海軍人の個人墓が多数有り、一見軍人墓地の感がした!
 拝殿等境内施設
【護國神社入口】
 【御朱印
第二鳥居、社号標
【維新の道石碑】
霊山歴史館
 
* 概要
 霊山歴史館は昭和45年(1970)に、全国ではじめて幕末・明治維新期の歴史を総合的にとらえて研究する専門博物館として京都に開館しました。


* 霊山歴史館前の石碑に刻まれた「館の理念」
  近代日本を開化せしめた維新の志士の尊い精神を学びこの国の歴史と伝統に立ってあすの日本を考えるために心をこめて若き人びとにおくる


* HP 「霊山歴史館
維新の道
【霊山招魂社】

【山口藩招魂社】
【岐阜県招魂社】
【鳥取藩招魂社】
 【福岡県招魂社】
【水戸藩招魂社】
 【熊本藩招魂社】
【高知県(土佐藩)招魂社】
【木戸孝允墓】
  【坂本龍馬・中岡慎太郎墓】
【同銅像】
【大村益次郎墓】 
  【昭和の杜】

*国のため いのち捧げし ますらおの  いさを忘るな 時うつれども
 昭和の年代は、昭和初期の世界政治経済の大混乱に端を発し、昭和6年(1931)9月18日満州事変、昭和12年(1937)7月7日支那事変、昭和14年(1939)年5月12日ノモンハン事件を経て、昭和16年(1941)12月8日米英両大国に対する大東亜戦争へと突入、昭和20年(1945)年8月15日の終戦に至るまで民族存亡の命運を賭けた対戦に進展し、地球の2分の1に当たる広大な戦域に400余万にのぼる将兵は、終始連合軍の圧倒的物量攻撃と対決、屍山血河の激戦を展開した。その間我が本土も度重なる空襲に焦土と化し、本土決戦も辞さずの一億国民の徹底抗戦の構えも原子爆弾の投下、ソ連の参戦と大勢の赴くところ、遂に聖断によりポツダム宣言受諾の止むなきに至り、15年に及ぶ対戦の幕は閉じられた。 この戦いは250余万の民族の尊い生命が失われ、想い起すだに惨烈悲痛の極みである。
 生還したとはいえ敗戦の汚名を甘受し、筆舌に尽くし難い数々の屈辱と苦渋を乗り越え英霊となった戦友の分までもと、祖国の復興に取り組んで世界に類のない発展をなしとげた。平和な祖国の現状を見るとき、ともすれば歴史のかなたへと薄れてゆく、過ぎし日に思いを馳せ、この年代に生を受け、青春を、学業を、職場を、家庭をと、全てなげうって戦った意義は、アジアの植民地解放の大理想を強く信じた宿命的戦いであった。このことは歴史の証明するところである。この昭和史に残した足跡と、この戦いに参加した事実を永く後世に伝えんと、生存せる戦友相計り、祖国日本の繁栄と、世界恒久平和の願いをこめて護国の英霊鎮まる京都霊山護国神社の佳域に『昭和の杜』を造園建設し併せて『従軍記念の碑』を建立するものである。
 昭和63年10月14日
     京都霊山護国神社権宮司   木村幹彦撰文 
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 【歩兵第百二十八聯隊顕彰之碑
歩兵第百九聯隊顕彰之碑
【石部隊独立歩兵第11大隊:
北支沖縄戦歿勇士慰霊碑】

 第二十三野戦防疫給水部戦歿者慰霊碑

鎮魂:嵐歩兵第百二十聯隊
ビルマ方面派遣安工兵第五十三聯隊顕彰碑 
 嵐第六二二七部隊:
輜重兵第百十六聯隊顕彰之碑

 第百十六師団衛生隊顕彰碑
 星光萬年:野砲兵第53聯隊
 あゝ特攻勇士之碑
慰霊:騎兵第20聯隊、騎兵第120大隊、
捜索第16聯隊、捜索第53聯隊

顕彰:野砲兵第122聯隊
パール博士顕彰碑
 
 各部隊戦歿者ご氏名・部隊顕彰板
白鴎顕彰之碑
満州開拓青年義勇隊碑
駆逐艦長波慰霊碑
金鵄勲章歴史と鎮魂の賦
 
 忠:終戦60周年
特操の碑
【慰霊顕彰碑:軍神乃木大将 母堂】 (リンクなし)
【「維新の道」内の軍人墓等:例・・・多数有り。】  
 
 
護国神社
   
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