指定護國神社参一覧表・参拝記録 
長野縣護國神社  
  鎮座地
  長野県松本市美須々6番1号

御祭神
  長野県出身の明治戊辰の役以来大東亜戦争に殉ぜられた御神霊を奉祭

御由緒(沿革):
  当神社は、昭和十三年長野県民の総意によって、本県の中央であり、旧陸軍松本歩兵第五十聯隊に隣接する現在地に建設され、長野県招魂社として、明治戊辰以来の御英霊を奉祀し、昭和十四年内務大臣の指定を受け長野縣護國神社と改称致しました。終戦後の神道指令により、昭和二十一年宗教法人として発足致し、当初長野縣護國神社と称していましたが、同二十二年美須々宮と改称、同二十九年長野縣護國神社と復称致し、昭和三十二年神社本庁より別表神社に指定されました。
御英霊に感謝の誠を捧げ、県民奉斎の神社として、その崇高な御神徳を敬仰し、祖国の永遠の平和と繁栄を願う守護神として、篤い崇敬を寄せられています。
境内の樹木は昭和十七年までに県内市町村より献木され、四季の変化をこまやかに映し出し、野鳥の群集う「美須々の森」として参拝者はもちろん市民の憩いの場としても親しまれております。
 ホームページ :    http://www.naganogokoku.jp/    
*2013年9月6日参拝
  歩兵第50聯隊の遺跡のある信州大学を見学後、神社の正面一の鳥居に出た。鳥居の奥に特大の慰霊碑がそびえていた。「嗚呼戦友碑」である。こんなに大きな碑は見たことがない。
 社殿が改修中で全容を拝観することが出来なかったのが極めて残念でした。

*2017年7月19日参拝
 再参拝:松本周辺の陸軍墓地、指定外護国神社等の参拝を実施。前回改修工事中だった長野県護国神社にも参拝。綺麗に回収の終わった本殿を参拝、やはり気持ちが違う。御英霊も喜んでおられるであろう。
 ・新たに「あゝ特攻」像が建立されていた。
 境内施設
【本殿】
 【御朱印】
 【第一鳥居・参道・社号標】
【第二鳥居:社殿】
 
【改修中だった本殿】
【平和の像】
慰霊碑等
【嗚呼戦友碑 : 南十字星の下に散華せる】 (大きい碑だ!) 
  【碑文】
  大東亜戦争に日本を遠く遥か南溟のかなたニューギニア島及其の周辺に祖國防衛のため挺身し海行かば水漬く屍山ゆかば草むす屍と散りし友の歩んだ途は惨烈悲壮筆舌に尽くし難し
 嗚呼 友の霊何処にぞ
 戦終り時移り此処に三十年今ぞ群霊懐しの故郷信州に帰りてこの地に鎮まり新しき日本の礎となる吾等亡き友の昔日を偲び 御霊よ 久遠に安かれと信濃の國各地の不変の石にこの祈願を刻しやがては同じ石下に吾等も魂魄を鎮め共に昔を語らんことを期して此処にこれを建てる
      長野県ニューギニア会
    昭和四十九年七月二十八日
   
 【シベリア抑留慰霊碑】
   【碑文】
  一九四五年八月の終戦は、ポツダム宣言の受諾によるが、同宣言九項を無視したソ連の蛮行により、日本軍将兵ら六十万余がシベリア各地へ強制連行され、飢餓、酷寒労働の三重苦に苛まれ、犠牲者六万余に及ぶ悲劇的な大惨事となった。
人道に悖るかかる暴挙の風化を忍べず、忘却させてはならない残酷史として後世に伝え、犠牲者の冥福と、恒久平和を祈念し、本慰霊碑を建立する。

  二〇〇五年八月九日  
  シベリア抑留慰霊碑建立委員会
【拓友之碑 :齋藤中隊】
   【碑文】
 元満蒙開拓青少年義勇軍齋藤中隊は二百十七名の隊員をもって編成 昭和一九年六月 齋藤義男中隊長指揮のもとに十四・五才の少年達が肉親と別れ 遥か満蒙の広野に開拓の意気高く 時の国策を信じ大陸に渡る しかし昭和二〇年八月 国境を突破したソ連軍の怒涛の進攻の前に なんら為す術もなく全員捕虜となる 銃口を背に 過酷な重労働を強いられ 寒さと飢えと疲労のため つぎつぎに病に倒れ 実に百二十余名の隊員が 異国の土となる
 あれから三十余年の星霜が流れ とかく忘れがちなこの厳粛な事実に想いをいたし きょう茲にわれら生存者は美須々の森に集い 亡き師 亡き友を偲び 御霊の安からんことを祈願し この地に拓友の碑を建立する
 歳月は流れども われらはいつもこの碑に集い 師を憶い 友を語り やがていつの日にか碑下にて相まみえんことを誓い 以て恒久平和への礎としたい

   昭和五十一年十一月吉日建立    興安拓友会
【拓友之碑:佐藤中隊】
   「碑文」
思えば昭和一四年満蒙開拓青少年義勇軍大いなる夢と希望を抱いた三百余名の十四・五才の少年が国策の第1線興亜の大業めざして遠く異国の地に骨を埋める決意も固く懐かしい故国を後に敦賀港より壮途につきました
 満州国勃利訓練所への道は遠く一日四十八キロの行程に大陸の野の花を見るゆとりもなく空腹と疲労を克服し一人の落後者ももなく到着 涙なくして開拓の途は歩めない辛苦の四年有余 やがて大東亜戦争勃発多くの者が応召され或いは病に倒れ終戦を迎えました
 其の間の労苦は筆舌に尽し難いものがあります 不幸にして病に倒れ戦果に散り永遠に満蒙の地に眠る同志に対し愛惜の感に堪えません
 終戦後同志を探し求る術もなく二十数年の歳月は水の如く流れ去りましたが同志の熱意によりここに「拓友の碑」の建立を見ましたことは同志と共に歓喜に堪えません
  当時中隊長 佐藤剛吉
 (昭和四十八年四月一七日 拓友会一同 建立)
【砲魂】  佛印派遣討四二三七部隊第四中隊 
  【碑文】

 復員満40年を記念して之を建つ

  昭和61年5月30日

   長野県出身者の会 会長 大嶋一義 ホカ一同
 【あゝ特攻】
  【碑文】
 大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、1機1艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。
 長野県出身者は、陸海軍合せ160余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
 松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。
 国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の、崇高なる精神を永く県民の心に刻み、後世に伝えるため、終戦70周年を期しここに建立いたしました。
  平成27年10月10日
    長野県特攻勇士之像建立委員会

  國の為 誠の道を一筋に 進み行くこそ大和魂
                      秋山白厳 詠

*(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会  日本人の心を伝える会
  慰霊碑像デザイン 塚本哲
護国神社
   
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