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奈良縣護國神社 | |||||||||||||||||
鎮座地 奈良県奈良市古市町1984 (高円山の麓 高円の杜) 御祭神 (栞) 明治維新以来大東亜戦争までの間、国難に殉じられた奈良県ゆかりの軍人、軍属、従軍看護婦英霊29245柱。満蒙開拓青少年義勇軍殉職者、県下消防団員。 (境内表示板) 明治維新から大東亜戦争までの約90年間にわたり国難に殉ぜられた奈良県出身者とゆかりのある軍人、軍属3万柱(大東亜戦争2万8千余柱)の御英霊並に満蒙開拓義勇軍・奈良県消防殉職者の御英霊が神鎮り坐す。 (参道入口表示板) 明治維新以来大東亜戦争までの国難に殉ぜられた奈良県出身の英霊3万柱を祀る。 維新戦争・西南の役 119柱 日清日露戦争 903柱 世界大戦満州事変 119柱 大東亜戦争 28068柱 |
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御由緒(沿革) (栞) 奈良県では当初奈良市飛火野の浄地に祭壇を設け、明治維新以来の国家民族のため戦没された英霊を招魂して慰霊祭を斎行していたが、昭和14年6月県下ゆかりの英霊の鎮魂とその遺勲を後世に伝えるため、護國神社建設奉賛会が組織された。 万葉の故地であり、大和盆地が一望されるこの景勝の地(1万5千坪)に、昭和17年9月、全県民挙げての奉仕により荘厳なる社殿が完成した。同年10月13日奈良県護國神社と称せられ、同月22日鎮座祭を斎行、3千柱の御祭神が祭祀された。その頃より大東亜の戦局は一段と苛烈なものとなり戦没者は日を追って増加、合祀祭神は年毎に増えていった。その戦没地は厳寒の大陸そして灼熱の南の島と全戦線にわたっている。奈良県護國神社では。これらの戦歿英霊の「みたま」安かれと、日々祭祀を厳修氏、御神徳発揚に努めている。 昭和17年10月13日 内務省指定の奈良県護國神社 昭和23年12月10日 社号を高円神社と改称 昭和27年7月23日 社号を奈良県護國神社に復称 |
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ホームページ : なし | |||||||||||||||||
広くて綺麗で落ち着く境内である。 ここに祀られている御英霊は幸せだな!と感じた。 他との決定的な違いは、万葉集と椿だろう。ありとあらゆるところに手書きの万葉集の歌と解説がある。読んでいると時間を忘れる。 何と言っても奈良の都ならではの雰囲気だ。樹木の主体は椿。3月前半でまだ蕾程度の花だったが、これが1ヶ月後には満開に咲き、参拝者を楽しませることだろう。 慰霊碑の数は多くないが、県の慰霊塔が境内に建立されているのも珍しい。 「京終」と云う駅から歩いてきたが、神社に近づくにつれ、信号等に「護国神社」の案内があり、地域と密着していいる神社である事を感じる。 ただ、残念ながら、奈良という観光地であるが故に、観光客がここまで足を運ぶのは少ないのが現状だろうと思う。 一方、奈良市等の観光案内に、護国神社が紹介されているのは、連携が上手くいっているのであろう。 |
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拝殿等境内施設 | |||||||||||||||||
【正面入口/大鳥居、社号標】 |
【御朱印】 |
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【社殿・境内 (広い!)】 |
【招魂斎庭】 |
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【明治天皇・大正天皇御製】 |
【掲示板:英霊の言葉】 |
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【青龍 高円の杜】 |
【万葉集内の関連歌】(葛城・斑鳩・生駒道の万葉歌等) |
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【山の辺の道 神々と万葉歌】 万葉の里、大和盆地が一望されるこの景勝地に建立 |
【 万葉の里 高円の杜】 境内は「高円の杜」と称され、慰霊の為に椿が1万本植樹されている |
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慰霊碑等 | |||||||||||||||||
各慰霊碑名をクリックして下さい。各碑のページにリンクしています。 | |||||||||||||||||
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