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新潟縣護國神社 | ||||||||||||||||||||||||||
鎮座地 新潟県中央区西船見町5932-300 (日本海に近い) 御祭神 戊辰戦争(新潟戦争)における官軍戦没者416柱を始め、日清・日露・各事変と先の大東亜戦争に至るまでの新潟県ゆかりのご英霊79729柱を祀る 御由緒(沿革):(栞) 明治元年10月29日、新潟市常盤岡(現在、新潟市中央区旭町一番町、新潟大学医学部)に「招魂社」(しょうこんしゃ)を祀り、 明治維新の際、国事に殉難したご英霊の慰霊祭を行ったことに始まります。(平成20年には創祀140年) 明治8年、新潟招魂社となり、明治10年には新たに社殿が建立されました。 明治34年、官祭社「新潟招魂社」となり、昭和14年内務省令により「護國神社」と改称。 規模些少により昭和16年7月、内務大臣指定社たる「新潟縣護國神社」を建建することが決定され、 同17年5月8日より県内各地より延べ25万余人の勤労奉仕で毎日百名以上、時には2千人、一日平均七百五十人の県民が真夏の太陽の下、奉仕に汗を流した。80余万円(現在に換算約三十億円)浄財により、昭和20年5月に竣工しました。 5月4日鎮座祭、5日「旧招魂社」より416柱の御神霊をご遷座、8日初の大祭を斎行、ご遺族・戦友・関係者多数が参拝され現在の芝生の部分も人々で埋め尽くされる程であった。 |
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(続) そのわずか三ヶ月後8月15日終戦を迎え12月俗に言う「神道指令」が発令され「宗教法人」となる。 同24年GHQの影響を受け「新潟神社」と改称したが28年には「新潟縣護国神社」に復称した。 同39年昭和天皇皇后の御親拝を始め新潟県に御来県の折、又記念の年など折ある事にご皇室よりご崇敬をいただいております。 境内松林の中には新潟県の遊歩道が設けられ、各文学碑があり、新潟市民の憩いの場として親しまれています。 |
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ホームページ : 新潟縣護国神社 | ||||||||||||||||||||||||||
海辺に近い、自然林に囲まれた雄大な感じの護国神社だった。観光ルート(隣接する公園)に入っているのか、一般観光客らしい参拝者が多かった。 慰霊碑は、参道の左右両側に整然と建立され、清掃等整備は綺麗になされており、その配慮に感謝いたします。ただ、配置が参道の一段高いところにあり、各慰霊碑の正面間近で慰霊参拝できないのが残念であった。 「下から見上げるだけでなく、慰霊碑の前に立てるように、登れる工夫」があると良いのではと感じた。 迎賓館は、洋風で神社の施設には感じなかった。結婚披露宴が主なのでなのでやむを得ないのか?神社の維持も考慮しないとね。 |
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境内施設 | ||||||||||||||||||||||||||
【本殿】 |
【御朱印】 |
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【第1鳥居・社号標】 |
【迎賓館TOKIWA(結婚式場)】 |
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慰霊碑等 | ||||||||||||||||||||||||||
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【戊辰役殉難者墓苑】 | ||||||||||||||||||||||||||
*鳥羽伏見戦争に始まる戊辰役の戦火は,新潟市街にも及び,西軍(薩摩,長州,高鍋,新発田)と東軍(米沢,会津,庄内)の双方に多くの死者が出た。 *昭和二十年、戊辰戦争西軍戦死者の墓碑がこの地に移管。 *昭和六十年に新潟大学本部敷地から東軍のものと思われる九十二体の遺骨が発見されここに埋葬されております。 |
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【戊辰 薩藩戦死者墓】 |
【戊辰役戦没者招魂碑:十津川隊】 |
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【高鍋藩兵戦死塚碑】 |
【大津藩船殉難者慰霊】 |
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【西軍戦死者の墓】 |
【戊辰役東軍慰霊碑】 |
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