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岡山縣護國神社 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鎮座地 岡山県岡山市中区奥市3-21 (両備バス西大寺行き、「護国神社」下車約8分) 御祭神 明治戊辰の役以降 国難に殉じた岡山県出身英霊 5万6千7百余柱 御由緒(沿革): 備前藩主 池田 章政公が、明治2年4月3日御後園(後楽園)裏竹田河原に於いて、戊辰の役戦死者34柱の招魂祭を執行せしめられ、次いで同年6月岡山市東山公園内に社殿と碑石を建て奥羽、函館両戦争戦死者55柱を祭祀されたのを起源とし、明治2年東京招魂社(靖國神社)が創建されたのに併せ「招魂社」が建てられ、後に護国神社と改称されました。 御祭神である「英霊」とは、明治維新の頃の戊辰戦争より大東亜戦争までの戦いにより亡くなられた方々の功績を讃えてそう呼んでいます。 御祭神には、戦いの中で病気になり亡くなられた方、負傷された方の看護の為に戦地に向かい亡くなられた方、終戦後シベリアに抑留され強制労働により亡くなられた方々もお祀りしています。 戦後の今日の平和は、国や家族を想いつつ犠牲となり尊い命を捧げられた御英霊によるものと感謝し、御霊安かれと日々慰霊顕彰に務めております。 |
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明治7年3月17日 官祭招魂社となる 明治11年 幣立山地内に社殿改築着工、同13年本殿、拝殿竣工 明治16年7月 社殿を同字内北方高地に移転 大正4年4月28日 岡山市奥市公園内に移転遷座 昭和14年4月1日 内務大臣指定、岡山縣護國神社と改称 昭和21年11月29日 操山神社と改称 昭和27年7月4日 岡山縣護國神社と復称 主な祭儀 春分の日:忠霊塔春分まつり、5月5、6日:春季慰霊大祭、10月5、6日:秋季慰霊大祭、 8月15、16日:萬燈みたま祭、秋分の日:忠霊塔秋分まつり |
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ホームページ : 岡山縣護國神社 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウォーキングを兼ねての参拝の旅なので岡山駅から歩いて行こうかと思ったが、余りの暑さ(今年は全国各地連日の猛暑日)だったので、バスで行った。 (路面電車もある) バス停の前には、野球場があり高校野球の地区予選らしい試合をやっていた。その奥に護國神社が鎮座している。 岡山市中心部を流れる旭川の東、操山(みさおやま)の緑に囲まれた静かな場所にある。 歩きだすと直ぐに慰霊碑が並んでいる。野球場を取り巻く感じである。多くの慰霊碑は、第一鳥居の前後に所狭しと整然と建立されていた。 境内は奥行きのある広々と敷地に整然と拝殿等が建てられている。 宝物遺品館は閉まっていたが、お願いすると気持ち良く開けてくれた。雰囲気の良い神社だった。 |
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拝殿等境内施設 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【第1鳥居・社号標】 |
【御朱印】 |
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【第2鳥居~境内(社殿)】 |
【社殿全景】 |
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【舞楽殿 (護国神社には珍しい)】 |
【慰霊碑群】 |
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宝物遺品館 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慰霊碑等 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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