指定外護國神社一覧・参拝記録 
足羽山招魂社 : 福井県福井市
  鎮座地
 福井県福井市山奥町60-1 足羽山公園

御祭神
       福井出身将兵戦没者之霊
        旧福井藩士卒之霊
           計8,092柱

御由緒(沿革)
「招魂の記」
 このお社は 元治三年京都堺町禁門ノ変にたおれた福井藩士七名ならびに明治元年戊辰ノ役殉難者十二名を慰めるため、明治三年九月この地に墓碑を建て、招魂場と呼んで旧福井藩軍務寮がこれを守護していた。 明治六年七月九藩主松平慶永(春嶽)公、茂昭公など建議なり御社殿を造営、同年九月十二日 前記十九柱を合祀して招魂社と称することとなった。その後西南ノ役、日清・日露の戦役など国事殉難者の御霊を合祀し、市民の崇敬いよいよ厚く明治三十四年に官祭招魂社、昭和十四年には足羽山護国神社と称したが、さらに大東亜戦争における戦没者の御霊を合祀し、昭和三十六年十二月現在の足羽山招魂社に改められた。
 祭事は明治八年から大東亜戦争終末までは官費による祭祀料を賜り、毎年福井市が執り行なった。この間、明治天皇、大正天皇、今上陛下の祭粢料御下賜もあり、全市民の聖地として讃仰されてきたが、昭和二十年七月戦災のため焼失 戦後は国内情勢により公費の護持は断たれ御社殿は荒廃し、例大祭も中止のまま戦没者の御遺族をはじめとし心ある崇敬者を嘆かせていた。
 昭和三十年御英霊奉賛の同志相はかり足羽山招魂社奉賛会を設立、市民各位の深い理解と念願により例大祭を復活し、同三十六年御社殿再建の熱望高まり御造営を計画、昭和三十七年三月着工、翌年四月竣工をみるに至った。
 昭和三十八年四月

*現在は、足羽神社社務所が末社として管理
*例   祭  9月25日
【御祭神(戦没)の霊名板:拝殿の左右に有り】 
【社号標・鳥居・参道】
境内碑 
【西南の役殉難碑】
建立場所
  福井県福井市山奥町60-1 足羽山公園内 足羽山招魂社

趣旨(英霊)(説明版)
 明治10年の西南の役に、鎮圧のため派遣され戦死した越前・若狭の兵士150人の霊を慰めるため、同16年に建立された。

碑文
 (風化のため読めず) 
鎮魂之碑】  
  建立場所
福井県福井市山奥町60-1 足羽山公園内 足羽山招魂社

趣旨(英霊)
 太平洋戦争終結50周年記念
 英霊8090柱の慰霊

碑文「趣意書」
 太平洋戦争終結50周年にあたり 足羽山招魂社奉賛会は 世界の恒久平和と異郷に散った尽忠の英霊8090柱の眠り安らかならんことを祈念し 懐かしき故郷福井市を一望するこの地足羽山に市民の浄財を基金として 招魂社ならびに周辺の環境を整備するとともに 更なる未来に向けて 招魂社奉賛会の連帯の強化を図り 併せて平和への歩みをより確かなものとせんことを誓い ここに 鎮魂之碑を建立する
   平成7年9月
    足羽山招魂社終戦50周年記念事業実行委員会
【為萬世開太平】
  建立場所
福井県福井市山奥町60-1 足羽山公園内 足羽山招魂社

趣旨(英霊)
 共に往って散華せられた戦友の霊を慰むる(細部下記参照)

碑文「太平の礎」
 大東亜戦争終結以来三十有五年 一億同胞のたゆみなき努力の結果 日本は世界の経済大国に発展した。 その契機となったのは、聖断による詔書であり、その中心は「万世の為に太平を開く」である。
 福井県海友会は創立第十五周年を迎えるにあたり、その由って来るところを深く考え、有志相はかり 共に往って散華せられた戦友の霊を慰むるとともに、わが国恒久の繁栄と平和とを祈念して、この地にこの碑を建てた。即ちいまはなき海軍の哀歓と、ひたすらなる追慕の情をこめた不滅の鎮魂譜でもある。
 表の文字は、終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎の筆になる
 昭和五十五年五月二十七日
  福井県海友会
 
  
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