指定外護國神社一覧・参拝記録
山川招魂社 : 福岡県久留米町
  鎮座地
 福岡県久留米山川町字茶臼山41 

御祭神
 明治13年合祀の御祭神名簿によれば高山彦九郎をはじめ勤皇殉国の士40柱、佐賀の乱戦死者67柱、西南戦争戦死者191柱、その他西南戦争以降の旧久留米領内出身の戦没英霊

御由緒(沿革) 
「鳥居前の説明板」
 明治2年、久留米藩主有馬頼成公によって高山彦九郎はじめ明治維新の大業に身を投じた志士38の霊を祀る招魂所が設けられた。
 その後幾多の事変、戦役における郷土出身の戦没者は、この地に祀られ鎮魂の社になっている。
 神社の裏には和泉守真木保臣・稲次因幡正訓の墓をはじめ佐賀の乱、西南の役に殉じた人々の墓石が立ち並び往時を偲ぶことができる。
 又、境内の一角に高山仲縄(彦九郎)祠堂之碑なども建立されている。
  平成9年3月
   久留米市

*御盾神社→招魂社→山川招魂社 

* 維持管理は、主として山川町・御井町の氏子及び遺族会が各種団体及び一般有志の協力を得て実施。
* 祭祀
 ・山川招魂祭
   10月20日 高良大社の指導、氏子代表者・遺族代表者・郷友会により運営
 ・爆弾三勇士顕彰祭
   2月22日 久留米市郷友会中核、高良大社、偕行会、隊友会、自衛隊等協力。柔剣道の展示等実施。 
【鳥居・参道】
 
 
 【爆弾三勇士之碑】
 爆弾三勇士とは、昭和7年の上海事変で久留米の混成第24旅団(金沢の第九師団との混成)の工兵部隊員3人が爆弾を抱えたまま敵の鉄条網に突っ込んで爆死した。(事故死説もあり)

 碑文が裏面にあるが、判読困難。以下の事を中心に書かれている?

 この混成第二十四旅団独立工兵第十八大隊第二中隊に所属していたのが江下武二一等兵、北川丞一等兵、作江伊之助一等兵の人でした。
2月22日払暁、敵陣を攻撃しますが、鉄条網に妨害され突撃が頓挫。
 そこで36名の決死隊を編成し、3人一組で破壊筒(約4mの爆破筒に竹と藁を巻いたもの)を抱えて敵陣に放り込み戻ってくることにした。が、敵の攻撃が激しく、敵陣直前の点火は困難と判断し、導火線に点火してから突撃するよう命じた。
 この3名は突入中に先頭の北川一等兵が被弾し倒れたため、後続の2人も倒れた。3人はそれでも突撃を止めず、ついに鉄条網と共に自爆粉砕した。
 このことが内地で報道されるや「肉弾三勇士」「爆弾三勇士」として、映画や歌で英雄視され、軍神と崇められたの。

*昭和56年2月22日 久留米市郷友会 建立
魂(輜重兵第56聯隊)
   「碑文」
 わが輜重兵第56聯隊は大東亜戦で不滅の武勲を建てた龍兵団の輝かしい功績の影となり、5年有余の長期に亘り、南方フィリッピン、ボルネオ、ジャバ、ビルマ、垃猛。謄越と転戦し、常に凶敵とまみえ、炎熱と戦いながら作戦輸送の任務を全うした。
 殊に日本の勝利を信じながら敵弾に倒れた336柱の英霊を偲び、大東亜戦争が正しく理解される日のあることを念じ、生存者一同、部隊発祥ゆかりの地に碑を建立してその武勲を永く記念するものである。
  昭和42年10月吉日
   ビルマ派遣軍龍兵団輜重兵第56聯隊生存者一同

「副碑:ビルマの月」(左側)
 雲濃く低き北ビルマ どこまで続く山の峯 涯はチベット ヒマラヤなるや
 起伏重畳 夜は更けて 飛ぶ黒雲よ 月早し

「従軍者名」の碑(後部)
【慰霊之碑  龍工兵題56聯隊】
  「碑文」
  昭和16年12月8日大東亜戦争勃発 龍兵団第56聯隊は同月15日久留米工兵隊内に編成され 既にマレーシア作戦中の菊兵団に続き、海軍援護のもとビルマラングーンに上陸、直ちに重慶軍を排撃しつつ、兵団の進路を確保しラシオに突入せり。南方作戦に先発せる坂口兵団所属の第1中隊も追求し来り。ビルマ公路を雲南に向かい追撃す。
 昭和19年5月、重慶米英連合軍は我に10数倍の兵力をもって猛反撃を開始 兵団は各地で包囲され、聯隊は水上兵団と今岡部隊に夫々1ケ中隊を配属、聯隊本部と残余の兵力にて龍常備隊の主力となれり
 垃猛謄越陣地を攻略せる敵は更に兵力を増強し昼夜をとはず猛烈な放火を浴びせ、遂に部隊長戦死、ミチナ陣地の中隊も敵の砲爆撃により殆ど壊滅龍陣地で果敢に戦える勇士も斃れるもの300を越え、止む無く軍馬を斃し陣地を撤収、追随する敵と交戦しつつケマピュに至り、濁流渦巻くサルウイノ河に友軍の渡河作業中終戦の報来り、戦ここに終わり。
 今首途の地に有志相はかり慰霊之碑をたて戦友の御霊を慰む。
 嗚呼、雲南ビルマの山野における激烈なる戦闘に倒れし英霊よ!
 願わくは吾等の哀情を汲み給え!

「副碑」戦歿者名、帰還後の物故者名。
官修墓地
  明治6年招魂社創建と共に、陸軍墓地が併設され、昭和17年まで、佐賀の乱以来の戦没者が祀られていた。山川招魂社に行く途中、左に入る道があり、墓地がある。

この墓地は、内務省の管轄だったので、「監修墓地」と呼ばれ、明治15年福岡県に移管された。

真木和泉守ほか、江戸末期の殉國者の墓、佐賀の乱の合葬墓、西南の役の個人墓がある。戦没した軍人・軍属の墓に並んで警視庁抜刀隊の戦没者が合葬されている。

この墓地から一段下がったところに、日清戦争から大東亜戦争までの戦没者の墓石4300柱が林立していたが、昭和17年、忠霊塔に合祀された。
   佐賀賊徒追悼戦死之墓   明治7年甲戍自二月十八日至廿七日  ( 将校 3名の墓) 
   
佐賀賊徒追悼戦死之墓  明治7年甲戍自二月十八日至廿七日 ( 下士官 12名の墓) 
 
佐賀賊徒追悼戦死之墓  明治7年甲戍自二月十八日至廿七日 ( 兵卒 32名の墓) 
 
西南の役 戦没者の墓 (個人墓)  
指定外護國神社参拝記録
  

   

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