指定外護國神社一覧・参拝記録
大竹招魂社 : 広島県大竹市
 
 
鎮座地
 広島県大竹市白石1-4  大瀧神社

御祭神
(大竹市招魂社御由緒)
  千四百五十七柱
(広島県神社誌)
  千四百六十柱

御由緒(沿革)
「栞(太田市招魂社御由緒、神前御由緒版)」
 大竹市招魂社は、大竹市出身者にして明治以後官命または公務により軍に従い、戦禍を被り 悠久の大義に殉じ護国の神となられた方々の御霊を奉祀している。
 明治33年 権現山の麓の三叉路の傍に大竹村により、日清戦争・北清事変の従軍者の凱旋記念碑が建立された。
 明治39年3月 大竹小学校で挙行された日露戦争凱旋祝賀式の後、権現山上に大竹招魂社が建立されて、日清戦争・北清事変・日露戦争の戦没者を合祀し、在郷軍人会によって招魂祭が執行された。
 大正3年3月 大竹町と油見村の協同により権現山上に誠忠碑が建立された。
 昭和4年 大竹町と油見村が合併し、油見村の戦没者を合祀した。
 昭和9年4月 既に諸用地造成のため山客を失いつつあった権現山上の大竹招魂社及び誠忠碑は、山麓の凱旋碑と共に白石一丁目の大滝神社境内に遷座した。
 昭和20年8月6日 米軍によって広島市に原爆が投下され、たまたま当日大竹町・小方町・玖波町より広島市に出動した義勇隊員や動員学徒の被爆戦没者数はおびただしく、後 その写真は他の戦没者の写真と共に招魂社の拝殿に多く掲げられてる。
 昭和21年4月 前年大東亜戦争終戦により、九死に一生を得て復員帰郷した者が相集い、大竹招魂社奉賛会を結成し、占領軍の武装した立哨兵監視の下、通訳を置いて、亡き戦友の慰霊招魂祭を執行した。
 昭和26年 大竹町と木野村が合併し、木野村出身戦没者を合祀した。
 昭和29年 大竹町、小方町、玖波町、栗谷村、友和村松ヶ原が合併して大竹市となり、祭神の出身地を大竹市全域に拡大して合祀した。
 昭和30年4月 大竹市招魂社遷座20周年記念事業として、大竹市招魂社奉賛会、大竹市遺族会、大竹市剣道連盟の共同により、従来例祭に遺族を初め参拝者が多く、拝殿狭小のため 之を祝詞殿とし、道場造の拝殿を新築した。
 昭和42年10月 大竹市招魂社奉賛会を大竹市戦没者崇敬会と改称した。
 昭和43年10月 大竹市遺族会により、慰霊碑が建立された。
 昭和49年9月 大竹市招魂社遷座40周年記念事業として、大竹市戦没者崇敬会、大竹市遺族会遺族会が協同して、千四百五十七柱の神霊録を奉納した。
慰霊祭
 慰霊祭は大竹市戦没者崇敬会の主催により毎年4月に執行している。
【鳥居・境内】
【扁額】

社名は、扁額では「大竹招魂社」
御朱印・栞等では「大竹招魂社」
 
【平和塔】
建立場所
 広島県大竹市白石1-4  大瀧神社

趣旨(英霊)
 細部不明

碑文

*大竹招魂社ではなく、大瀧神社の境内に建立されている。
【慰霊】
  建立場所
 広島県大竹市白石1-4  大竹招魂社(大瀧神社)

趣旨(英霊)
 
碑文
「碑文」
  明治改元より時移り星変わりここに百星霜 その間、あるときは大陸の戦野に、あるときは南溟の涯に、國に殉じて花の命を散らせしもの少なからず、 はたまた世界最初の原爆に逢いて、痛恨の最後を遂げたるもの多し。
 思うに今日の平和も繁栄も、これら英霊の犠牲なくしては、あり得ず。
 英霊よ、  安らかなれ。
  昭和43年10月吉日
  大竹市遺族会
   協賛:大竹市、市戦没者崇敬会、市軍恩連盟、市傷痍軍人会

*台座部分(周囲)に、各戦役毎に戦没者氏名を刻印
【誠忠碑】
   建立場所
 広島県大竹市白石1-4  大竹招魂社(大瀧神社)

趣旨(英霊)
 「明治三十七八年戦役紀念」

 明治三七八戦役における慰霊顕彰

碑文
  大正3年3月 大竹町油見村 建立
  陸軍大将伯爵寺内正毅書

 *周囲に戦没者及び出征兵士の芳名を刻印
 【凱旋紀念碑】
  建立場所
 広島県大竹市白石1-4  大竹招魂社(大瀧神社)

趣旨(英霊)
 日清戦役、北清事変における凱旋紀念

碑文
 背面
*明治二十七八年戦役及び明治三十三年北清事変従軍兵士名
*同内地守備兵士名

  明治34年10月建立
     大竹村
 【平和の礎】
建立場所
 広島県大竹市白石1-4  大竹招魂社(大瀧神社)

趣旨(英霊)
 
碑文
*終戦40周年記念
  昭和60年10月
   大竹市遺族会 建立

 (御由緒には記載なし)
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