指定外護國神社参拝記録 
防府市護国神社:山口県防府市
  鎮座地
 山口県防府市桑山1-4-1 桑山公園専有地

御祭神
 

御由緒(沿革)
「社全説明板」
 当境内地は桑山招魂場と呼び、慶応元年5月、御楯隊士等が調練の場として開拓に着手し、同年9月完工しました。
 明治3年9月に元整武隊士等が相議り、ここに招魂社を創建し、明治維新殉国の烈士品川喜一等53柱の英霊を奉祀しました。
 その後、日清・日露の両役を始め、太平洋戦争に至る数字の国難に殉じられた、郷土出身戦没者の忠魂義魂を合祀し奉った、英霊永久に神鎮まります神社です。
 現社殿は、防府全市民及び全国崇敬者等の赤誠溢るる寄進により、昭和39年10月に竣工されたものです。
 なお境内地北隅に明治初年松前・函館港などで戦死の飯田孫七当68柱の墳墓と枢密顧問官山田顕義揮毫の桑山招魂場の大石碑があり、南隅には文久3年赤間関にて戦死の山本弥八海軍将士七柱の墳墓、又力士隊那須唯一等10柱、騎士沓屋兵衛等5柱の墳墓があります。
  防府市護国神社 奉賛会
 【扁額】
 【境内全景】
 【砲弾:戦利品(奉納)】
  
【桑山魂場碑】
 
【桑山招魂場碑】 
  「碑文の意味」
 文久慶応の頃、国家は多難であった。長州藩は四方で戦い、死傷が相継いだ。御楯隊と海軍将士は考え、桑山に戦没者の遺骨を収め、埋葬することにした。廃藩の後は、朝廷が祭祀。国家勤皇の士に対する処遇は、重く、厚い。
 この頃、隊の同士と話し合い、碑を建てて長州諸隊の顛末を後世に明らかにしたいと考え、自分(山田顕義)が銘を作った。銘に曰く「血を流し、骨をさらして、勤王に身を捧げた。王政復古し、ここに忠良が祀られる。桑山高くそびえ、
海広く、天長し。」
 山田は、吉田松陰から立志の目標が書かれた扇面を与えられ、高杉晋作からも厚い信頼を得ていた人物です。
 慶応3年10月3日、山田は野村望東尼と桑山に登り勤王諸有志の墓を詣で、望東尼は歌を詠みました。
 このとき、山田は24歳、望東尼は61歳。晋作とのつながりもあってか、両者は親密で、望東尼は山田の武運を祈って歌を贈り、お守りまで挙げています。
 山田は、整武隊総督、薩長東上軍の第一陣の指揮官などを務め、維新後は陸軍中将、初代司法長官などを歴任。日本大学・国学院大学などを創始した。
 なお、高杉晋作、野村望東尼とともに、桑山招魂場の祭神です。 
【御楯隊等墓碑】 
  「説明板」
 禁門の変の後、大田市之進、山田顕義、品川弥二郎らを御楯隊が結成。総督は大田市之進、隊士は230人、屯所は三田尻におかれた。
 元治元年には、高杉晋作の功山寺挙兵に呼応し、幕府に恭順しようとする俗論党と戦い、第2次長州征伐では、遊撃隊などと共に幕府軍と戦いました。
 御楯隊はその後、鴻城隊と合併して整武隊となる。
 先が尖っているのが神道系、丸いのが仏教系

(墓碑14基)氏名等略
 ・左奥の大きな墓碑:陸軍歩兵大尉 徳久蘇八
【整武隊墓碑】 
  【説明板」
 整武隊は、長州藩の諸隊のうち、御楯隊と鴻城隊が合併して編成され、三田尻出征後、海路尾道へ、京都から東北、函館へと転戦活躍します。
 総督は、山田市之允(顕義)で、薩長東上軍の第一陣の指揮官となるひとです。
 墓碑は、禁門の変、内訌戦(高杉晋作の功山寺挙兵による藩内保守派との戦)、第二次長州征伐、戊辰戦争などの時に亡くなった方のものです。

(墓碑68基)氏名略
【 長州藩海軍関係墓碑】
「説明板」
 ロシア船の北方(樺太・択捉島)じぇの襲来事件(文化露寇)は対外的危機意識を生み、長州藩の対外防備の契機となり、第7代萩藩主毛利重就が創設した会計機関「撫育方」の資金をもとに、陸海軍の様式化が進められる。元治元年には、下関での四か国連合艦隊による報復により、長州藩海軍関係の多くの若い人材が失われますが、高杉晋作の挙兵と諸隊の決起により成立した新政権は、慶応元年、藩是を「武備恭順」へと転換し、かって敵対した薩摩藩と接近し、軍事力の近代装備化をさらに進めていきます。

(墓碑9基) 氏名略
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