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岩國護国神社:山口県岩国市 | ||||
鎮座地 山口県岩国市今津町6-12-23 専有地 (旧称:関所山招魂場) 御祭神 御由緒(沿革) 「社前説明板」 岩国護国神社は、国の守・郷土の守 岩国市民の守り神です 「境内入口岩国護國神社由緒」 当神社は旧岩国藩主吉川経幹公が維新前後の戦役に斃れられたる二十二名の御霊をお慰めする為明治元年秋関所山に社殿を造営毎年祭典が擧行されたのに起源する。 爾来 西南・日清・日露・大東亜戦争などに於いて散華された戦没者を合祀し平成十六年四月一日現在三千三十一柱の御霊を奉斎する。 明治二十四年岩国町関所山招魂社と称し山口県庁の管理に属していたが護国神社制度が公布されて岩国護国神社と改称する。 昭和二十年の豪雨による境内・参道の損壊により昭和二十八年秋関所山より現在地に社殿を移築建立し毎年四月十一日と十月十日に厳粛に慰霊大祭をとり行なっていたが平成十四年から十月は第二月曜日に変更して現在に至る。 平成17年1月 |
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【社号標・鳥居・参道階段】 |
【御朱印】 |
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碑 | ||||
【忠霊塔】 | ||||
「碑誌」 昭和5年3月5日本町篤志家白井訓一氏の一建立に係る忠魂碑の小学校運動場拡張の為移転を契機として今日忠霊塔の威容を?仰するに至れり而して改築施工に先ち前忠魂碑の処理に関し熟慮の結果其の尊厳を冒涜せざるべく碑表は之を納骨室内背面奥部に配置せしめ其の他石材は之を境内適当なる箇所に利用したるものにてこれに因り碑表は?骨と共に当時衆人崇敬の対象となり爾来永劫神聖を保持し得たり 其の由来を誌し以て鋼製に伝へしとする所以なり 皇紀二千六百年忠霊塔除幕式当日(*昭和14年11月) 建立 (風化して部分的に読めず) *「忠霊塔修復工事」碑 平成13年3月24日午後3時28分芸予地震により岩国地方は震度5強の揺れにより大きな被害を受けた 平成14年7月 岩国市遺族後援会 |
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【慰霊碑:海軍飛行予科練 特乙二期会】 | ||||
「建碑由来」 太平洋戦争愈々苛烈を加う一九四三年六月、祖国の難に殉ぜんとの赤心に燃え、日本各地より難関を突破し選ばれし若人我等六百十二名は此の地、岩国海軍航空隊に飛行予科練習生として入隊し連日の猛訓練に耐え抜き、各自の適性に応じ各々機種別に別れ各航空隊で飛行練習生として飛行術を習得し実戦部隊に配属される。 爾後第一線に在っては帝国海軍伝統の攻撃精神、犠牲的精神を遺憾なく発揮し、北太平洋上空より南海の大空に勇戦敢闘克くその責に尽す。 戦局益々逼迫し遂に戦史に比なき壮烈鬼神をも哭かしむる必死必殺の特別攻撃に至っては、民族の安泰を願い私情を去り、従容として悠久の大義に生くべく白雲を朱に染め水漬く屍と化する其の数、半数に達す。 嗚呼黙して散った彼等の胸中誰ぞ忖らん。 戦雲去りて半世紀を経た今日、我等茲に恒久の世界平和を祈念しつつ幽冥の卿等を偲びその鎮魂を希う生存者相集い、我等が揺籃の館を望める此の丘に万感をこめ此の銘碑を建立す。 同期の友よ 安らかに眠られんことを! 一九九一年六月一日建立 海軍乙種飛行予科練習生(特)二期会 |
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【拓魂碑】 | ||||
「碑文」 大東亜戦酣となり日本の生命線満州へ大和民族五百万の大移動が国策として企てられ 岩国市も亦 市を母体とする分村計画を樹立し 昭和十七年満州国竜江省洮南県永平村へ七十九戸二百三十四名が入植 営々開拓の鍬を振いしも 昭和二十年八月終戦に伴い筆舌に尽せぬ悲惨な顛末となり 七十有余名の犠牲者を出し 引 揚者も亦物心両面の痛手は図り知れぬものあり 茲に終戦二十五周年に当り拓魂碑を建てこの冷厳な事実を伝え 拓友の御霊を永遠に慰めんとす 合掌 昭和四十五年三月 吉辰 永平岩国開拓団犠牲者 御芳名刻印 |
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歌碑碑文 くにのため 若きは征きて 帰らねど 銃後の誓い いま何とせむ 昭和47年11月吉日 岩國護国神社 建立 |
【神馬】 |
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