指定外護國神社参拝記録 
宇部護国神社:山口県山宇部市
  鎮座地
 山口県宇部市中宇部1631 維新山

御祭神
 主神:福原越後元們公(福原家第24代)
 合祀:禁門の変で戦死された22柱より、大東戦争までの国の為に戦死された宇部市全域にわたる尊い御柱、消防等の校務殉職者

御由緒(沿革)
 創建 慶應2年11月(1866年)
(社前説明板)
 当神社は、禁門の変の御柱を西側奥地の「維新招魂社」(通称御霊社)に合祀して以来、約80年にわたる戦死者の尊い御英霊をお祀りしてあり、英霊顕彰が続けられております。社名、社殿は昭和年代の変遷を経て現在に至っております。
 当神社と縁の深い福原氏は、宇部領主として治世3百年の間、鵜の島開作、蛇瀬溜池、新川掘削、常盤溜池等領勢増伸に格別の努力を傾注するとともに、維新館を開設して人材養成にも励み、禄高1万石を大きく凌ぐ程になりました。尚、永大家老として歴代毛利藩の経営にあたり多大の功績がありました。
 越後公は、徳山藩主毛利広鎮公の6男でしたが、福原家に養子となり永大家老を務め乍らも、領内の治世に勤め領民からの敬愛は特に厚く、なきがらは宗隣寺に葬られました。越後公自刃9か月後には藩より罪情焼棄されたので、「維新招魂社」の建立となり、後に正4位男爵を賜りました。
 越後公の養子芳山公は、明治初期英国留学により石炭の重要性に着目、帰国後宇部抗区の流出防止と統合を積極的にすすめ、これを宇部共同義会に継承して産業発展の基盤づくりに多大の功績がありました。 
(神社の資料)
 宇部護国神社(維新招魂社)は、元宇部領主福原越後元僴(もとたけ)翁をはじめその家臣、そして日清・日露戦争その他の戦役事変で戦死された英霊、また昭和年代になってからは、周辺地域の合併により同地域の英霊 が合祀され、現代では大東亜戦争の英霊3430柱、更に消防団などの殉職者も合祀されています。
 禁門の変の責任を負わされ自刃された越後公の招魂祭を慶応元年5月に斎行したのが創始で、維新招魂社と称され、社殿は慶応2年11月19日に落成した、昭和14年5月に内務省令により宇部護国神社と改称され、昭和21年8月に維新山神社と改称され、サンフランシスコ講和条約発効と共に昭和27年に再び宇部護国神社の社名に戻り現在に至ります。

。昭和19年には起源2600年記念事業として、全市崇敬者の協賛の下に神域を拡張し荘厳な社殿が設営されましたが、翌20年7月1日の空襲に敢えなく焼失いたしましたが、幸い御神霊は旧社殿に奉還することができ、社務所だけはかろうじて難を免れました。

 昭和23年頃から社殿再建の話が、有志の間から澎湃として起ってまいりました。 昭和28年8月28日には、宇部護国神社御造営奉賛会が設立され(一部略)、いよいよ再建に向かっての動きが活発になってまいりました。 全市民より600万円の浄財が寄せられ、工事は小倉の宮大工 ・中村時次郎に依頼して昭和30年1月8日起工式、同9月26日深夜遷祭、同9月27日には三隅市長以下関係者多数集まって盛大に竣工祭並びに竣工式が催されました。
 それが現在の社殿です。
 【扁額】
福原越後公像
 
【旧社殿跡】 
【殉國戦士之碑】
 
  慶応2年2月創建、昭和19年4月に現在の社殿に遷座。



昭和22年9月28日 碑建立
【招魂場:旧社殿跡の周囲】 
   
 【忠霊塔】

(背後に宇部市戦没者銘記録盤) (昭和45年11月建立))
 【日露記念碑】
  
(細部不明:風化して読めず)
平和之礎 
  「碑文」

 この世に生授かりし人は 何時の日か天国に行くなり
  平和はこの世の最大の極楽なり
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