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乃木神社(京都府京都市) | ||||
鎮座地 | ||||
京都府京都市伏見区桃山町板倉周防32 | ||||
御祭神 | ||||
乃木希典大人の命(ノギマレスケウシノミコト) (*鎮座90周年を期に静子夫人の御霊を「静魂七福神から本殿に遷座) | ||||
御由緒(沿革) | ||||
(栞) 全国の乃木神社の中でも最も早く建立が計画祈願され、4年の歳月をかけて、大正5年9月に創建されました。創建の中心になったの村野山人翁は、薩摩の出身で、豊洲、門司鉄道をはじめ、摂津、山陽、南海、京阪の各電鉄の取締役を歴任された方です。翁は現役時代、明治天皇の御大葬に、京阪電鉄の会社代表として参列し、そこで乃木大将の殉死を聞き、強い衝撃と感銘を受け、大きな決意をされました。それは、乃木将軍の一周忌に当たる1年後には会社を辞め、自ら全財産を投じて、明治天皇の墓所である伏見桃山山稜の近くに、乃木神社を建立しようということでした。 建立の地は、伏見城が在った頃(1595~1615)、板倉周防の守の屋敷跡であったと云われている所で、そのことから現在、この地は「板倉周防」となっています。地名以外にはその名残を留めているものはありませんが、境内にある「笑獅子」は、屋敷内にあったものが、神社建立の際に、これだけが残されていたといわれています。神社創建当時には、あちこちに樹齢400年と云われる大黒松(最後の1本も1960年頃枯死)が生い茂り、重厚な雰囲気を漂わせていました。また、社務所横のつくばいは、社殿南側の土塀改築に伴う発掘により出土したものです。 京都の外に、北海道、栃木、鹿児島、東京、香川、山口にも乃木神社が建てられていますが、ここ京都に建立されたのは、乃木大将が明治天皇の御大葬に際して「うつし世を神去りましし大君のみあと慕いて我は行くなり」の辞世の句を残して殉死されたからの一時にあります。 (神社案内板) 当神社は、明治天皇に殉死した陸軍大将乃木希典(1849~1912)を祀り、伏見桃山御陵のそばの当地に大正5年(1916)有志の人々によって創建された。 うつし世を神去りましし大君の みあとしたひて我はゆくなり 表門は四脚入母屋造 門扉は樹齢3千年の紅檜一幹で、巾6尺3寸余(約1.9㍍)の一枚板である。 境内には、日露戦争のときに第3軍司令部に用いたという中国風の民家、乃木将軍の遺墨、遺品、ゆかりの人々の品などを陳列した宝物館 そして 長府(山口県)にある将軍の生家を模した建物がある。(京都市) |
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ホームページ | 京都乃木神社 |
素晴らしい神社だ!威厳と活気がある。京都、伏見の桃山と云う場所によるのだろうか?往々にして、このような特殊な神社は、戦後あまり見向きされることが少ないのが現状と思われるが、参拝者も逐次訪れていた。 創建時の経緯を知ると、その思いが今でも受け継がれているのであろう。また、夫婦の像とか夫婦の絆が自然に引き出されており、夫婦の在り方を教えてくれる。 司馬遼太郎に冷たい批評を受けた乃木将軍だが、其の人間的魅力は、今でも日本人の心のどこかに引き継がれている気がしてくる。 頂いた「栞」の内容も充実しており、勉強になった。 |
境内施設 | ||||
【御朱印】 | 【拝殿】 | 【栞】 | ||
【参道入口大鳥居】 | 【神門】 | 【絵馬額】 | ||
【社号標】 | 【拝殿内】 | 【本殿】 | ||
*参道入口大鳥居 稲荷式石鳥居、周囲2.3mの花崗岩。「乃木神社]の揮は、閑院宮載仁親王で青銅製。第2次世界大戦の際、金属供出の憂き目に晒されるが、あまりの高さに取り外しができず難を逃れたという逸話がある。 *神門 4脚入母屋平入の木造銅板葺き。木材は台湾阿里山の樹齢3千年の檜、1幹をもって建てられている。扉の幅6尺3寸の1枚板。台湾総督時、現地人に信望厚く、神社建立を知った台湾の人々から木材提供の快諾があり、大門の建設が完了した。装飾は、乃木将軍に相応しい質素・倹約の心を表した設計である。 *本殿 北向き春日造。北に明治天皇稜、京都御所を擁しているので背を向けられないので南面ではない。 *拝殿 四面解放式入母屋造。天井、欄干に装飾が無く、重厚で素朴な雰囲気。正面鴨居に掛かる絵馬額は、乃木将軍も愛馬を駆巡る姿を、彫刻界の巨匠・後藤貞行氏が、欅の1枚板に彫り上げた奉納絵馬。 |
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【狛犬:神門】 | 【手水舎】 | 【狛犬:拝殿前】 | ||
【愛馬:壽号・璞号】 | 【内苑入口】 | 【凱旋】 | ||
壽(す)号 ・ 璞(あらたま)号 |
皇師百万強虜を征し 野戦攻城屍山を作す 愧ず我何の顔ありてか父老に看ん 凱歌今日 幾人か還る 希典 |
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【心字池と一念地蔵】 | 【一念地蔵と乃木将軍】 | 【爾霊山】 | ||
爾霊山は嶮なれども豈攀じ難からんや 男子功名克艱を期す 鐵血山を覆って山形改まる 萬人斉しく仰ぐ 爾霊山 |
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【和み地蔵】 | 【干支:本殿玉垣周囲】 | 【七福神】 | ||
【十三重の塔】 | 【乃木将軍ご夫妻像】 | 【山城えびす神社】 | ||
英霊の御霊を慰められるよう建立 |
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【幸せに成り・・(タイ)】 | 【左:拝殿、中:内苑入口、右えびす神社】 | 【棗:水師営から移植】 | ||
椅子とテーブルがあり休憩できる |
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【栗絵馬:勝栗】 | 【境内全般】 | 【乃木神社創建者:村野山人翁之像】 | ||
【さざれ石】 | 【手水舎】 | 【宝物館と記念館】 | ||
慰霊碑等 | ||||
【英霊よ安らかに】 | ||||
「碑文」 戦争だけはどんなことがあっても再び繰り返してはなりません。国家の大義と民族の悠久の栄を信じて散っていった御霊に誓って生き残った私共はこの原点に絶えず返っていかなければならないと思います。 「先亡の霊尊ぶ」人間として当然のおこないすら忘れ去る悲しい現実に今警鐘を乱打しなければなりません。私達の住む伏見区においても千2百余柱の御霊が今尚在天より見守って下さるのです。 この時にあたり乃木神社のご理解とご協力を得て相集い未来永劫に出身将兵の方々をお祀りし、永久の平和と慰霊を祈願しこの碑を建立する 昭和59年5月30日 伏見区遺族会 建立 *伏見区戦歿勇士:学区毎の御名前 *京都府知事 林田悠紀夫書 |
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【忠魂碑】 | ||||
「碑文」 伏見市出身の陸海軍軍人軍属にして維新以来各戦役に参加し名誉の戦傷死病歿せられたる将士の霊を祭り年々其の祭祀を行い以て忠君愛国の精神を涵養し思想善導に資せむ為め京伏合併記念事業として建設せるもの也爾云 昭和6年3月30日 京伏合併記念會 * 陸軍大臣、陸軍大将 南次郎 書 |
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【滄海に眠る 若人の碑】 | ||||
*旧海軍慰霊碑 日露戦争日本海海戦で活躍した軍艦「吾妻の主錨」 「散る桜 残る桜も 散る桜」 祈念 滄海に眠る若人の碑 顕彰会 *京都府知事 元海軍少佐 林田 悠紀夫 書 |
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【慰霊碑群】 | 【御神刀奉献】 | 【乃木将軍景仰の碑」 | ||
日露戦争時の露軍捕虜をねぎらった大阪の女性が、徳富蘇峰に揮毫を依頼して自宅庭に建てていたものを、寄贈 |
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記念館(日露戦争第三軍司令部) | ||||
【記念館】 | 【祖霊神】 | 【側面から】 | ||
【展示物の一部】 | 【説明文】 | |||
この記念館はもと中国東北区柳樹房にあった周玉徳・周金ご夫妻の住宅で日露戦争の際、第三軍司令部として使用されていたものである。 明治天皇の御大葬は明治45年9月13日であった。この時京阪電車の代表として御大葬に参列を許された村野山人取締役は、この朝乃木将軍の自殺を知り深い感銘と衝撃を受け、明治の終焉を痛感された。氏は乃木大将の一周忌を期して京阪電車を退職し、乃木神社の建立に残りの生涯と私財を奉じられた。 その際、村野氏が現地に赴き、周氏にこの家屋の買収交渉を行い、譲渡許可を得て解体し、資材一切をここに運び、移築して記念館としたものである。尚外部様式と左手奥の間(乃木大将寝室)は当時のまま、今に伝え、他は改装し展示館としたものである。 |
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宝物館 | ||||
【宝物館】 | 【乃木大将真筆:日露戦争出陣前、大本営にて】 | 【乃木大将真筆:碑表】 | ||
【展示の一部】 | ||||
長府乃木旧邸 | ||||
【旧邸】 | 【米を搗きながら勉強する希典】 | 【家訓を訓示する父親】 | ||
【乃木家の家訓「いろは数え歌」】 | 【乃木学習院長の訓示要項】 | |||
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