軍人祭神神社参拝記録
若獅子神社(静岡県)
 鎮座地
   静岡県富士宮市上井出2317-1
 御祭神
   先の大東亜戦争において若獅子の名のもとに勇戦奮闘悠久の大義に殉じた陸軍少年戦車兵の教官・生徒六百有余の御霊
 御由緒(沿革)
(由来)
 上記ご祭神をして永久祭祀の途を拓くため昭和59年10月神社を創建しました。
 いま、英霊は、この地に還り守護神社として我が国の平和と弥栄を希い、氏子崇敬者の平和と繁栄をひたすらお守りしておられます。 とくに御祭神は、交通安全・学業成就・産業振興の神様として特別の御神徳を備えておられます。

(神社の起源)
 昭和40年12月、学校跡のこの地に戦没同窓生の慰霊・顕彰のため、若獅子の塔を建設したのを起源とし、以来毎年慰霊祭を執り行い、英霊の奉慰・奉顕に努め、建塔20年を期に富士山本宮浅間大社・靖国神社の御教導により、永久平和への祈りをこめ神社造営を発起、顕彰会会員729名の奉賛によって創建されました。

(神社の名称)
 若き情熱に燃え、純真一途に国難に赴き、勇猛果敢な活躍を遂げた少年戦車兵の愛称で会った「若獅子」を神社の称号といたしました。

*主な祭典
 ・歳旦祭   1月 1日 13時
 ・みたま祭  8月15日 12時
 ・例祭    10月10日 13時
ホームページ http://www.wakajishi.jp/

 世界遺産「富士山」の構成要素の一つとして登録された静岡県「白糸の滝」近く、静かな環境に恵まれた所に鎮座していた。想像していた以上に広い敷地に立派な神社、塔が建てられている。陸軍少年戦車兵学校の一部だという。
 関係者の御努力によりこのような立派な神社及び慰霊施設が整っていることに感動した。

境内施設
【全景:神社拝殿・若獅子の塔】 【拝殿】 【正面:鳥居、拝殿、塔、社標】
【社号標】 【拝殿:奥に御神殿】 【御神殿:拝殿】
【手水舎】 【若獅子神社合祀者】 【賽銭箱】
【参拝者記帳所】 【東屋・社務所】 【境内全景】
【慰霊碑等】
【若獅子の塔】
「碑文」
美しい我が国の象徴、千古に仰ぐ霊峰富士の麓、この地こそ日華事変・大東亜戦争を通じ若獅子の名のもとに活躍した陸軍少年戦車兵揺藍の地であり、又その魂のふるさとである。
  日本陸軍はノモンハン事変後、近代戦の中核である戦車隊の拡充強化を図るため、昭和14年12月千葉陸軍戦車学校に生徒隊を設け、少年戦車兵を教育した。
  爾来戦局の熾烈なるに伴い、昭和17年8月この地に陸軍少年戦車兵学校を移し、本格的な養成が行われた。
  想えば7年の短い歴史の中に四千四百余の紅顔の少年が若き情熱に燃え、朝夕富士を仰ぎ、心身を錬え学業を修め、戦車を駆使してひたすら猛訓練に励み、国軍の中堅幹部として勇躍この地を巣立っていった。
  そして大陸の曠野に、南海の島々に、或いは北辺の草原に勇戦奮斗し、赫々たる武勲を誇ったのであるが、六百余の友は祖国の平和と繁栄を念じつつ莞爾として悠々の大義に殉じたのである。
  戦火おさまって20年、いま秋風蕭場たるこの地に立ちて、往時を偲び亡き友を追慕するとき、万感胸に溢るるを禁じ得ないのである。
  その御霊を慰め、殉国の至誠と輝ける偉勲を永く後世に伝え、併せて真の平和を祈念し、われら同窓生相はかり、なお数多くの御賛同と御支援により、ここに若獅子の塔を建立する。
 昭和40年12月1日
 陸軍少年戦車兵学校同窓生一同

「塔徴」
 聳ゆる直ぐなる塔は純忠一途に国に殉じた若獅子の魂が天に連なる崇高な姿であり 神像は千仞の嶮崖に挑む若獅子の姿でまさに初陣に赴かんとする烈々たる気魄を表したものである。

「若獅子の塔概要」
・御製謹書者 明治神宮宮司 甘露寺受長氏
・製作者    東京芸術大学名誉教授 内藤春治氏
・塔設計者   東京芸大元教授 金沢庸治氏
・塔由来記  元陸軍少年戦車兵学校長 玉田美郎氏
 
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【サイパン帰還戦車:九七式中戦車】 「帰還戦車の由来」
 かっての大戦において陸戦の華 少年戦車兵とともに活躍した機甲部隊の主力に九七式中戦車(チハ車)がありました。
 この戦車はもっとも熾烈をきわめた玉砕の島サイパンにて四十余名の少年戦車兵とともに勇戦奮闘 祖国の礎となり戦後三十年土中深く無縁をかこっていましたが このたび一有志の悲願がかない この母なる地に還り安置したのであります
 無数の弾痕は戦争の激しさを訴え萬身の赤錆はたたかいの空しさを語り平和の尊さを教えています
 ここに若獅子の御霊とともに永く平和の道標として顕彰されんことを希うものであります
  昭和五十年十月吉日
   第五期生  (下田四郎)

九七式中戦車諸元(乗員四名)
 自重 14.3t   全備重量 15t
 全長 5.55m  全幅  2.33m 
 全高 2.23m  最低部地上高 0.40m
 接地長 3.54m 履帯幅  0.33m
 発動機 空冷式ディーゼル V12
 装甲(mm) 
   砲塔全面 25 同 側面 25 同 後面 25
   車体前面 25(12+16) 同 側面 20~25
    同 後面 20       同 上面 10
 武装  九七式57mm戦車砲 1 弾薬 114発
      九七式7.7mm車載重機 2 弾薬 4035発
 最大速力 時速 38Km 航続距離 210Km
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【陸軍少年戦車兵学校跡碑】 *この地は陸軍少年戦車兵4千有余が志操を練り心技を磨きし不滅の聖域なり

*「沿革」
昭和14年12月
 日本陸軍はノモンハン事変後、戦車隊の拡充強化を図るため千葉陸軍戦車学校に生徒隊を創設し、同時に第1期生150名が入港した。生徒の年齢は若干15歳から17歳であった。
昭和16年11月
 千葉陸軍戦車学校生徒隊を、陸軍少年戦車兵学校と改め、本格的な戦車隊幹部の教育をはじめられた。
昭和17年7月
 山紫水明、古来武人練武の由緒あるこの地に校舎を新設し、文武両道の充実した教育が行われた。
昭和20年8月
 戦争の終結に伴い、陸軍少年戦車兵学校はここに6年有余の歴史を閉じたのである。
 教職員:1550名
 生徒 1期:150名 2期:230名 3期:500名 4期:600名 5期:900名
     6期:700名 7期:550名 特別幹部候補生:525名
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【松野の奇岩】 【門標】 【元陸軍少年戦車兵学校構内図】
【入口】 【案内板】
軍人祭神神社一覧表

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