護國神社
占領下の護國神社

 昭和二十年(一九四五)八月、日本が大東亜戦争に敗れたことによって、靖國神社と護固神社は未曾有の危機に見舞われた。米国を中心とする連合国軍総司令部(GHQ)は、連合国に対する脅威の源泉と見倣した「軍国主義・国家主義」イデオロギーの排除を精力的に推し進め、同年十二月十五目、その主要な発源とされたいわゆる「国家神道」の廃止を目的とする「神道指令」を発した。その結果、神社は明治以来続いてきた国家とのすべての関係を絶たれることになったのだが、その中でも彼らから最も危険視されたのが戦歿者を祀る靖國神社と護國神社だったのである。

 もちろん、ポツダム宣言では「信教の自由」が保障され、靖國神社も護國神社も民間の宗教法人として再出発していたので、やみくもに閉鎖・破壊を命ずることは憚られたらしいが、他の宗教団体、いや他の神社と比較しても非常に厳しい差別的な処遇が占領末期まで続いた。たとえば、崇敬者が自発的に神社に献金することや、戦災によって焼失ないし損傷した社殿を復興することもしばらく見合わせられたことがあったし、国公立学校の児童生徒が社会科の学習のために神社や寺院を見学することも靖國神社・護岡神社には認められなかった。

 なかでも深刻だったのは、いわゆる国有社寺境内地問題である。国有社寺境内地とは明治四年(一八七一)の上地令によって古くから認められてきた社寺領をことごとく国有地に編入した上で、そのうちの一部を無償で貸与して、従来通り使用することを容認した制度である。当時、議会で審読中であった憲法改正案では「公金その他公の財産」を「示教上の組織若しくは団体」の使用・便益などのために「支出し、又はその利用」に供することを禁止していたので(現憲法八十九条)、これまでの国と神社・寺院問の財産上の特殊な関係を抜本的に整理する必要が生じ、該当する神社や寺院に国有境内地を無償ないし有償で譲与することになったが、「軍国的神社」と名指された靖國神社・護國神社にはこれを適用しないどうれたのである。対日講和条約が締結された直後の昭和二十六年(一九五一)九月十二目に至って、この留保が解除されたとはいえ、何年もの間、宗教法入としての存立に不可欠の財産である境内地の収得ができないという不安定な状態が続いた。

 このように、多方面にわたって厳しい処遇を受けてきた中で、少々意外に思かかるかもしれないが、実はGHQは靖國神社國よりも護國神社の方に険しい目を向けていたのである。その理由の一つは、護國神社の制度的整備が国家総動員体制が確立されつつあった時期になされたことにあるようだが、たとえば、それは靖國神社には求められなかった社名の変更がなされたことにも現われている。「護國神社」という名称は一切使わずノ所在地名のみを付したもの(北海道護國神社⇒北海道神社)、旧国名を用いたもの(福山護國神社⇒備後神社)、古称に囚んだもの(長野縣護國神社⇒美須々宮)など多様である(占領終結後には旧に復した)。

 なし得るならば、閉鎖に追い込みたいと最後まで考えていかであろうGHOの執拗な施策を前にして、結局のところ、靖國神社・護國神社が致命的な後遺症を残生ことかくその杢質を守り通すことができたのは、何よりも遺族や戦友を中心とした一般国民の神社存続を願う強い要望を無視できなかったからである。六年八か月におよぶ"逆風の時代"に神社護持のために苦闘した先人たちの努力を決して忘れてはなるまい。

☆(靖國神社編:「故郷の護国神社と靖國神社」解説「靖国神社と護國神社について」大原康男より)
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