護國神社
護國神社の創建

 護國神社は、幕末から明治元年にかけて主として各藩が藩出身の殉難者や戦歿者を祀るために設けた地方招魂社が起源である。廃藩置県の後は政府が官費で維持・管理することになり、祭祀料・修繕料か国から支給され、招魂社明細帳が作られ、受持神官を置いて祭祀その他一切の業務を取り扱わせた。

 また、地方招魂社のご祭神には戦歿者たけでなく、平時の死歿者も含まれていて区々であったため、当該地方出身の靖國神社のご祭神と共通するようにするなど、祭神合祀の条件の統一も漸次整備されていったが、制度が全面的に整えられたのはかなり遅く、昭和十四年(一九三九)の護國神社制度の発足を待たねばならなかった。

 同年三月十五目、招魂社は護國神社と改称され、社名・祭神・祭祀などについて詳細な規定が設けられて面目を一新する。社格は従来通り付さないとされていたが、実際上は「内務大臣ノ指定セル護國神社」(指定護國神社 終戦まで五十一社を数える)は府県社(道府県を崇敬境域とする神社)、「其ノ他ノ神社」(指定外護國神社)は村社(村を崇敬境域とする神社)と同等の収り扱いを受けることになった。

 前者に合祀すべきご祭神の範囲は神社所在の道府県一円の区域とし、一府県一社を原則とするが、特別の事情のある府県については複数の神社を指定する場合もあった。概ねそれは聯隊区(徴兵制の下で兵員を徴集するために設けられた特別の行政区域)の関係によるものので、たとえば、島根県には松江・濱田の両護國神社、広島県には廣島・福山の両護國神社が指定されたようにである。社名に道府県名を冠することができるのは、この種の心のに限られる。

 もっとも、東京には靖岡神社があるので、それとは別に護国神社が建てられることはなかったし、神奈川県護國神社はご鎮座直前に戦災に遭って焼失したまま終戟を迎えたため、存在しない。

 後者に合祀すべきご祭神の範囲は従前の崇敬区域たるものとした。そして指定・指定外とを問わず、いずれも所管は招魂社時代と変わらず内務省である。

☆(靖國神社編:「故郷の護国神社と靖國神社」解説「靖国神社と護國神社について」大原康男より)
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