護國神社
全國護國神社會の概要
☆ 所在地
  東京都千代田区九段北3-1-1 靖國神社内

☆ 「50年史刊行の辞」(全國護國神社會長 柳沢寮)より
 昭和20年8月15日、わが国は敗戦という未曽有の悲運に遭遇し、ついで所謂神道指令により、特に靖国神社並びに護國神社に対する風当たりは苛酷なまでに厳しく、存立さえも危ぶまれる中にあって、翌年11月それらの対策を協議するため、全國の護國神社宮司が初めて東京に参集し、終日極めて率直真剣な討議を行い「護國神社の存続に関する陳情書」に出席者全員の署名を添えて、連合国軍総司令部に提出し、累累陳弁懇請すると共に今後も必要に応じて開催することを申合せて発会、以来、26年5月にはこの会を「浦安会」と称したが、31年5月、会の性格を明確にするため「全國護國神社會」と改称して今日に至った。

☆ 「全國護國神社會50年史刊行を祝す」(神社本庁総長 岡本健治)より
 全國護國神社會が本年50周年の嘉節を迎えられますことは洵に慶賀の至りであり、衷心よりお祝い申上げます。
 昭和20年敗戦により、我が国は未曾有の国難に遭遇致しました。就中靖国神社・護國神社にとりましては、一際厳しい事態が展開されることになりました。占領下の重圧下にあって、関係者一同祭祀の厳修と御祭神の顕彰を図るべく、精一杯のご努力を重ねられたのでありますが、神社護持の為に洵に畏きことながらご社名の改称を余儀なくされたことを始めとして祭祀・境内地等についても大きな制限を加えられ、悲憤慷慨の涙を呑んだことは決して忘れることは出来ません。
 斯して、昭和21年11月に全國の旧指定護國神社にの宮司が神社本庁に参集、鳩首凝議した結果、靖国神社を中心に大同団結を図り、一枚岩を以て難事に対処することになったのでありました。そして、講和条約が締結された昭和26年以降、順次公葬禁止の緩和と靖国神社・護國神社への国有境内地の無償譲渡の道が開かれるに当り、戦没者葬祭の制限緩和等の内容周知と事務的な取扱を徹底されるよう努力され、更には靖国神社国家護持・公共性確立のため靖国神社法早期成立の運動や新憲法がもたらした弊害である政教関係訴訟への物心両面に亘る支援を行う当、年を重ねるごとに其のお力を増しながら活動を展開されました。

☆ 「全國護國神社會50年史刊行に寄せて」(靖国神社宮司 大野俊康より)
 顧みれば、戦後の斯界の苦境は筆舌に尽くし難いものがあり、「全國護國神社會25年史」に橋本甚一会長が「発刊のことば」に「幕末から明治維新前後における殉難諸士の霊魂をはじめ、近代文明国への前進をつづけつつある中に、尊い身命を捧げた忠節烈士の御霊を、民族固有の伝統に基いて、護国の神として合祀奉斎しきった靖国神社・護國神社の上にも、昭和20年の敗戦によって、未曾有の悲運が容赦なく襲いかかって来たのであった。連合軍の占領下にあって発せられた所謂神道指令により、神社界の置かれた立場は容易ならざるものがあったが、就中靖国神社・護國神社に対する風当たりはまことに酷しいものであった。
 この時局に対処するために、昭和21年に神社本庁の召集ではじめて全國の護國神社宮司が東京に参集した。昭和26年には北海道護國神社藤枝宮司の提唱により護國神社宮司独自の立場で、同祀職懇談会が靖国神社を会場として催され、共同問題の研究機関をつくること、連合軍その他から特別な目的を持った結社的団体であるかの誤解をまねくことのないようとの配慮から、その名を浦安會とすることなどがきめられて発足を見たのであったが、昭和31年には情勢の変化に伴って、会の性格を明確に標榜する必要があるとして、全國護國神社會と改称、会則を改めて一段の充実をはかることとなった。」と記された処であります。
 その厳しい苦難の道を協力一致、見事に克服され、堅実な復興から大きな発展へと、懸命な努力を続けて来られたのであります。
 その間、私共への大きな支えとなりましたのは、明治天皇を始めとする御歴代の靖国神社・護國神社に寄せ給う広大な大御心でありました。折りある毎に御親拝、あるいは御饌料の御奉納を賜り、時には、親しくねぎらいと励ましのお言葉を賜りました。私共は有難い大御心を心の支えとして、日々の奉仕に精励してまいりました。
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