著名軍人墓参拝記録
橋本佐内の墓(福井県)
  所在地
 福井県福井市佐内町7 佐内動物児童公園

沿革
 幕末の偉人・橋本左内の墓所をはじめ、銅像や、左内が十五歳で著した「啓発録」の石碑が並ぶ。
 もともとは菩提(ぼだい)寺の「善慶寺」などが建っていたのが「戦災で焼失して公園になった」

「副碑説明文」
 大西郷を心服せしめた幕末福井藩の鬼才景浜橋本佐内の墓である。安政の大獄に座し、小塚原の露と消えるや、友人長谷部弘連等によって一応同所回向院に埋葬されたが、間もなく文久三年当所に移葬された。当所は都市計画実施までは、日蓮宗善慶寺の境内に属し、同寺が橋本家菩提寺であった関係から、当佐内墓に列んで、初代長徳、父長綱、母梅尾の墓などが建てられてある。
  昭和二十五年十二月  福井市
【啓発録】
 

一 稚心を去る
一 気を振う
一 志を立てる
一 学を勉める
一 交友を択ぶ

「副碑説明」
 「啓発録」は 嘉永元年(1848年) この地に眠る郷土の偉人 橋本左内先生が、15歳の時に自分の生活を反省して、自分自身を激励し、言い聞かせる意味で述べたものです。
 5つの項目は、どれもその考えの深さや鋭さ、心の立派さに感嘆するばかりです。
 この偉大な先人の残した言葉は足羽に住む人々の生活の教訓となり、人生の指針になるものと確信します。
    平成8年10月7日
       足羽公民館 うらがまちづくり足羽地区委員会
【銅像】
 
【碑文】
 数え年十五歳で啓発録を書き、早くから俊秀のほまれ高かった橋本佐内先生は長ずるに及び時の藩主松平春嶽公に重用され、幕末の国内騒然たる中によく時世を達観して開国尊重の大義をかかげ日夜国事に奔走した。不幸二十六歳の若さで刑死したが、そおの卓越した識見と烈々たる憂国の至情はよく回天の大業成就の因をなし、今もなお郷土の人心を振起するところきわめて大きい。ここに先生を敬仰する多くの人人の誠をあつめてこの像を建設し、ながくその遺烈を天下に顕彰するゆえんである。
  昭和三十八年十月七日
   福井市長 島田博道鮮
【左:銅像、中央奥に墓】
 
「公園内説明版」
 橋本佐内は幕末の福井藩士です。
 16歳のときに大阪に行き蘭学や西洋医学を学ぶなど、若い頃から熱心に勉強しました。
 佐内は、24歳の若さで藩校「明道館」の学監同様心得に就任し、欧米の優れた学問を学ばせようとしましたが、「むやみにまねるのではなく、日本古来の道徳など精神的な学問を助けるものとして学ばなければならない」と洋学を学ぶ時の注意も忘れませんでした。
 将軍の後継問題が起きると、福井藩主松平春嶽の命令を受けて、一橋慶喜を将軍にしようと江戸や京都で活動しました。しかし、徳川慶福を将軍にしようとした井伊直弼が大老になると、佐内は捕らえられ、安政6年26歳の若さで処刑されました。
 佐内は、15歳のときに「啓発録」を書きました。これは、学問を志した佐内が、これからどのように生きていくかという心構えを綴ったものです。
軍人墓地
   
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