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桜ヶ丘聖地(大分県) |
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所在地
大分県大分市志手5-3組
(旧称:志手ヶ丘陸軍墓地)
沿革
「墓地入口 ご案内板」
桜ケ丘聖地は明治41年陸軍歩兵第72連隊が大分市駐屯の際設けられて以来大分市に駐屯或は設置された連隊または学校(明治40年~大正14年第72連隊、大正14年~昭和18年第47連隊、昭和18年~昭和20年陸軍少年飛行兵学校)と大分連隊区司令部により管理され、これらの関係戦没者および郷土出身戦没者の御霊を合祀してある旧陸軍墓地であります。終戦により大蔵省が管理することになり、昭和30年4月25日払い下げを受けて大分県が管理することになって現在に至っています。
昭和34年に県民から寄せられた浄財百万円と補助金等57万余円とをもって
墓碑の移転を行い、近代的な墓地に改修し、殉国の英霊に敬弔の誠を捧げる
とともに、県民清遊の地としたものであります。
墓碑例祭日
シベリア事変田中大隊戦没者碑 2月26日
満州事変合祀碑 3月1日
旧衛戊地戦没者合祀碑 3月10日
済南事変合祀碑 5月3日
水平洋戦争戦没者納骨塔 8月15日
全墓碑恒例供養 盆彼岸
ご参拝の方は管理人事務所にお知らせください。
昭和46年3月 大分県」 |
* 大分県の旧陸軍墓地「桜ヶ丘聖地」は、大分市志手5の3組、大分市の中心部から西方2Km余り、JR大分駅から徒歩約25分、郊外の丘陵地の端にあり、入り口は住宅街を通り抜け行き止まりの位置にある。墓地が開設された当時は聯隊に隣接した場所で、墓碑のほとんどはシベリア事変に出兵した第72聯隊田中大隊の294柱である。
* 墓地の広さは6千876㎡
*戦後は。占領政策の影響などもあり慰霊祭も行われず、遺族等の墓参もみられなくなり荒れた状態となっていた。
県遺族会会長他の幹部は、墓地に眠る英霊を永遠に顕彰しなければならないと、維持復活の運動に乗り出した。
毎年盆ごとに、清掃奉仕と供花焼香を続け、県が理解を示し、昭和28年3月納骨塔を建立し慰霊祭を行い、補助金や県民からの浄財によって、園内の整地、墓碑の配置替え移転、休憩舎、手洗所、外柵の新設、並びに桜、ツツジ、楓、梅等を植栽、県民に親しまれる公園となり、昭和34年11月、遺族会始め県、各市町村、関係団体等多数の参列のもと盛大に慰霊祭が挙行された。
その後しばらくは、各墓碑の例祭日などの墓参等が行われたが、遺族も3世代を超え、転居などにより次第に連絡も途絶えるようになった。また、関係者の高齢化が進んで、「英霊にこたえる会大分県本部」が引き継いできた。
平成20年、90回忌を最後とするシベリアーユフタ戦没者の慰霊祭が2月26日、遺族関係団体の代表者等来賓多数も参列、しめやかに執り行われた。特にこの日ぱ田中大隊長の孫にあたる田中豪氏も山口県より参列し御礼の挨拶があり、また陸上自衛隊湯布院駐屯地の音楽隊が当時の「血染めの雪」の曲を演奏し慰霊祭を引き立てた。
本県には桜ヶ丘聖地の外に旧陸軍墓地は無く、その後の戦没者は全て護国神社に合祀されている。 |
【墓地の概要】 |
【納骨塔】
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この塔は 大東亜戦争終了当時大分聯隊区司令部に保管されていた分骨4千柱及びその後の復員処理による特殊遺骨を納め永くその霊を慰めようとするものである
昭和28年3月31日
大分県知事 細田徳寿
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【シベリヤ記念堂】
老朽化し、収められていた遺品は護国神社に移管 |
【満州事変戦死者合祀碑】
1934年8月13日建立 |
【旧衛戍地埋葬者合祀之碑】
1933年7月31日建立 |
【済南事変戦死者之碑】
1929年3月20日建立 |
【シベリヤ事変ユフタ戦死者・田中中佐他左官級の墓】
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【シベリヤ事変ユフタ戦死者・尉官級の墓】
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【シベリヤ事変ユフタ戦死者・下士官兵卒の墓】
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【満州事変戦死者の墓】
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