陸軍墓地参拝記録
丸山陸軍墓地「愛媛県戦歿者慰霊塔」(愛媛県)
所在地
 愛媛県松山市北斎院町25番外 
沿革
 明治11年9月、官有地となり旧陸軍省所管の陸軍墓地となった。当初は将校、下士官、兵に区分して埋葬されていたが、太平洋戦争末期には英霊をまとめて安置するため忠霊塔の建設が始められたが、建設半ばで終戦となる。
 終戦後、大蔵省の所管になるが、当時は墓塔の建設が制限されていたため、終戦時のまま放置されることになった。
 サンフランシスコ平和条約の発効を機に、県民から慰霊塔建設の要望が高まったことを受け、昭和28年、「愛媛県戦歿者慰霊塔」の建設を計画、昭和29年4月からこの土地を無償で借り受け、同年9月18日に慰霊塔が完成、10月3日に竣工式典が行われた。
 地下の納骨堂には、郷土部隊である松山歩兵第22聨隊関係の日清・日露戦争、日中戦争、太平洋戦争の戦没者2,888名の英霊が郡市別に安置されおります。納骨堂の上に「英魂」(久松定武知事筆)と刻まれております。
 愛媛県関係の戦歿者を慰霊するための施設として愛媛県が管理している。
 平成22年9月、納骨堂内部、入口等の改修工事を実施した。
 春には、満開の桜が慰霊塔を彩ります。
墓地の概要
* 広さ 8584㎡
* 旧松山藩時代は砲術射的場だった。
* 愛媛県郷友会が、愛媛県から管理委託を受け、愛媛県隊友会等協力団体が応援して清掃管理と慰霊祭(秋分の日)を行っている。
旧墓地
* 慰霊塔の左後の小道を下った林の中に、2基の碑と個人の軍人墓が整然と並んでいる。
* 2基の碑の右側の碑には「満州事変戦没将士合葬の墓」で16名の名前が刻まれている。海軍の下士官明の名前もある。昭和8年3月建立。
* 左側の碑は、「供養塔」と刻まれ、西部第62部隊が昭和8年4月に建立。
* 碑の前、左側に左官級、右側に尉官級の墓碑が並んでいる。
* 松山歩兵第22聨隊は、日露戦争で旅順要塞の攻撃に参加し、多数の戦死者を出したので、日露戦争の墓碑が多い。
* 墓地の入口手前の駐車場近くに「軍馬、犬鳩供養塔」が昭和19年3月に建てられている。碑の近くに「軍馬等慰霊塔修復・顕彰有志の会」と「愛媛県郷友会」が其々建てた説明板2基がある。
【墓苑の概要】
【石標「愛媛県戦歿者慰霊塔」】 【慰霊塔「英魂」】 【墓地全景】
【丸山墓地の由来碑】 【英魂】 【供養塔:西部第62部隊】
【供養塔・満州事変戦歿者慰霊碑】 【将校墓碑群】 【下士官墓碑群】
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【右碑の説明板】 【軍馬、犬鳩慰霊塔】 【左碑の説明板】
軍馬・軍犬・軍鳩・家畜慰霊塔について
 明治天皇御製
   人ならば誉れのしるい受けまし 戦のにはに立ちし荒駒
 これまで戦のたびに、軍馬・軍犬・軍用鳩は「物言わぬ戦士」や「生きた兵器」として戦地に送られてきた。
 先の大戦でも約70万頭の軍場や、数知れぬ軍犬、軍鳩が各地の戦線でめざましい活躍をしてきた。これらの動物たちは、敵弾や病に斃れたものも多いが、終戦時に生きていたものも総て占領軍に引き渡され、遂に一頭一羽といえども故国に帰ることはなかった。また、その軍場や動物たちの戦史が語られることも少ない。
 日本騎兵の父と言われた秋山好古大将縁の地に、軍馬等犠牲になった動物たちの慰霊塔があることは真に意義深い。塔は昭和19年3月、帝国在郷軍人松山支部、愛媛県馬事会愛媛支部、愛媛県畜産連合会、帝国軍犬協会愛媛支部により、慰霊のため建立されたものである。この種の慰霊塔で家畜まで含めたものは他に例がなく、誇るべき愛媛の遺産である。なお碑文は陸軍中将鳥谷章氏の揮毫である。
 しかし、長い歳月を経て、心ならずも毀損・荒廃のまま推移してきたが、このたび多くの心ある皆様のご芳志並びに浄財と、株式会社有光組関係者の奉仕的施工によって見事に修復・整備されたものである。
 ここに記して謝意を表するとともに、多くの人々によって永く慰霊と顕彰が続けられることを願うものである。
    平成23年6月
      軍馬等慰霊塔修復・顕彰有志の会
    彼の国に残せし駒の嘶けば 夢幻にたてがみ撫でぬ  (元騎兵第4旅団騎兵第25聯隊隊員)
 揮毫者の鳥谷章氏は北予中学校長秋山好古氏の後任校長である。台座は蹄鉄を、塔前の香炉は飼い葉桶をかたどり、台座には御影石で蹄釘頭をあしらっている。碑文の家畜とは、兵器や軍装に使われた皮革や防寒毛皮の犠牲になった牛・馬・兎などのことである。
「軍馬・犬・鳩・家畜慰霊塔」
 上記とほぼ同様の記述内容である。
   平成21年 秋  (修復前に作られた説明板であろう。)
   愛媛県郷友会
   慰霊塔の顕彰を願う有志
軍人墓地
   
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