陸軍墓地参拝記録
小田山忠霊堂(陸軍墓地)(福島県)
所在地
 福島県会津若松市花見ヶ岡1丁目9 

沿革
「案内板」
1 この忠靈殿あるところは 元若松歩兵第65連隊及び元若松歩兵大29連隊が かって陸軍墓地として管理していたところであります
1 忠霊堂内には 日清戦争から大東亜戦争までの各戦役における両連隊の戦没者をはじめ これら連隊以外の本県出身陸海軍人などの戦没者あわせて1万数百名の 分骨 ご遺髪などが 安置されております
1 尊い生命を捧げられ 平和の礎石となられた方々に対し 心から感謝と崇敬の念を捧げましょう
 【側面】
 【題額】
【全景:堂の左右に慰霊碑等】
【堂の前にあった注意書き:配慮が素晴らしい!】
 
 【ガダルカナル 想い出の塔】
「碑文」
 はるかなる南、ソロモン海のガダルカナルは、太平洋戦争の決戦場となった島である。
 旧陸軍第二 師団は、日本軍主力として、この島で勇敢に戦った。しかし連合軍の抵抗、困難な地形、弾薬と食 料の欠乏、熱帯病に悩まされ、多くの犠牲者を出した。痛恨きまわりない死闘の島であった。
 われら生存戦友は、南冥の地に埋もれし戦友のことが忘れられず、昭和四十六年十月、遺族な らびに福島県民の支援を受け、遺骨収集を実現した。いま遺骨は会若松連隊を臨むこの丘に鎮まる。
 ガダルカナルに散りし戦友よ、故山の土に安らかに眠り給え、ここに世界の平和を祈りながら、現 地より持つ帰りし石を置き、想い出の塔を建つ。
 ガダルカナル総攻撃三十周年の日にちなむ
  昭和四十七年十月二十五日
   旧第二師団福島県勇会 

【時計】 
   この時計は、ガダルカナルの戦場で、会津若松から第一線に出陣した歩兵第二十九連隊が、最後の突撃を決行した時刻をしめしています。
  昭和十七年十月二十四日深夜から総攻撃を開始し、死傷続出するも攻撃を続け、二十五日午前 四時やや過ぎ、将兵は悲壮な決意のもと軍旗と共に帰らざる突撃をしました。
  平成二十年四月二十日 
    ガ島忌実行委員会
【忠魂碑】
  *明治28年8月  有志 建立

(建立年月日からすると、日清戦役における戦没者の慰霊顕彰か?)
【日露戦役戦病没将士合祀之碑】
  *細部不明 
【慰霊碑】
  *満州会津村 開拓殉職者100余柱の慰霊顕彰
 御芳名刻印

*碑文「殉難之記」
  昭和十七年二月十一日 国策により満州会津村建設期成会結成さる 会長若松商工会議所会頭 故高瀬喜左エ門 理事九名 各種団体職域を網羅す この間時局緊迫し大東亜省 満州事務局設 立され 同年五月一日矢吹訓練所の訓練を経たる二十七名を第一次先遣隊として送り出し 興安東 省 布特哈旗成吉思汗壘跡に到着 満州会津村と名づく 
 爾後本体を歓送すること五次に及び駅頭沸く 会津村の用地一万町歩 団員六十八名家族共総数一百五十二名 昼夜開拓に挺身す
 然るに時局頓るに急を告げ二十年八月八日突如ソ連参戦 その強襲を避け急遽脱出するに 壮丁 既に現地に応召し老幼の男女のみなり 戦死者八名 行方不明二名 病没八十一名 千辛万苦言 語に絶す その霊位を市内安福寺に安置す茲に広くこの奉公の事蹟を銘記し殉難死亡者の冥福を祈る   昭和四十四年十一月三日
     慰霊碑建設期成会
【軍用動物供養塔】
  *細部不明 
軍人墓地
   
inserted by FC2 system