陸軍墓地参拝記録
村松陸軍墓地(新潟県)
所在地
 新潟県五泉市愛宕甲2631 村松公園

沿革
*元々は、河内にあった。
*1944年10月十四日 現在地に移転忠霊塔(実際は納骨堂)を建立する
 ・墓地にあった墓碑は基礎に入れる。
 ・2100余名
*慰霊祭 4月 遺族会



*雨漏りがするので工事中。しかし、内部を参拝できた。
【各戦役戦死病没者諸霊位】
 
【護国の英霊此処に眠る】
 
【公園入口:鳥居(右方向に忠霊塔)】
 
 【題額】
  
 【忠魂碑】
建立日から「日露戦役における戦没者の慰霊顕彰?
(歩兵第30聯隊)

 明治39年3月 建立

*陸軍中将 西島助義 書
【戦没陸軍少年通信兵 慰霊碑】 
  碑文(副碑)
 この慰霊碑は 先の大東亜戦争等において
 祖国の安泰と 家族の平安を願い 敢然と戦場に赴き 義を盡し
 若くして華の如く散った 陸軍少年通信兵の英霊を慰めるため我等相図り
 村松町の御好意のもとにこの地に建立し
 八百余柱の御霊を合祀したものであります。ここにその偉勲を後世に伝え
 永遠の平和を祈念するものであります

 平成7年10月11日
   全国少通連合会


村松公園内に数か所 植樹をしている。記念碑有
【慰霊碑】
 
碑文(裏面)
 昭和8年東京に陸軍少年通信兵の教育開始せられ逐年増員し 昭和17年陸軍少年通信兵学校となれり 昭和18年には更に新潟県村松町に陸軍少年通信兵学校開設せられ併せて7千余名の若人を教育し国軍戦力統合の骨幹たる通信連絡に盡瘁し各戦線に偉勲を樹て作戦の要望に応えしめたり 然るに苛烈なる戦線に或は瘴癘の地に多くの少年通信兵を戦病没せしめ其数300余名に及ひしは痛恨の極みなり 殊に昭和19年秋南方戦線に向う少年通信兵230余名は九州沖及東支那海にて敵潜水艦に襲われ戦線に至らずして船と共に水漬く屍となれるは真に慟天哭地痛恨惜惜く能はさる所なり
 終戦後20有5年今や我国は稀有の隆昌と平和に栄え世界の大国となれり
 惟うに是れ1に祖国の無窮を念じ悠久の大義に殉じたる英霊の加護によるものと謂うを得へし
 生きて此の盛運に遭う我等相諮りて空清く気澄める村松の地をとし碑を建て以て尊き御霊を永く鎮め祭りて慰め奉る 在天の諸霊願わくば我等が微哀を享けられんことを
  昭和45年10月11日
   全国陸軍少年通信兵連合会
軍人墓地
   
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