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越佐戦没者納骨堂(陸軍墓地)(新潟県新発田市) |
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所在地
新潟県新発田市西園町 西公園(陸上自衛隊新発田駐屯地前)
沿革
陸軍墓地は、郊外の「五十公野(いじみの)」に開設された。
支那事変の拡大により戦死者が増え、五十公野の陸軍墓地は手狭になり、昭和17年ごろから納骨堂の建設に着手。
市内中学校の生徒は学徒報国勤労奉仕隊として、墓石をリヤカーで運搬、新しい納骨堂の礎石として安置した。
納骨堂には、大戦での戦没者の位牌、納骨壺が積み重ねられ 歩兵第16連隊創設以来の各戦役・事変で陣没された英霊1万5千余柱の御霊をお祀りしている。
戦後、米軍により、西公園内の納骨堂はじめ忠霊塔・碑の取り壊しを求めてきた。この時、大竹金吾氏他数名の町会議員が「どうしても取り壊すというなら、わし等の首をはねてからにしてくれ」と一歩も譲らなかったという。
*毎年5月3日 招魂祭 |
【扁額】
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【堂内:戦歿者之霊位】
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全景
左から 「納骨堂」 「慰霊平和塔」 「越佐招魂碑」
その間に、他の碑がある。 |
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【越佐招魂碑】 |
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日清戦役後、聯隊衛戍地(現西公園)に建立が進められた。
10mに及ぶ剣の刃型を型どり、「忠霊塔の題額」は、征清大総督・小松宮殿下の御真筆
漢詩:菅原道真作
離家三四月 (家を離れて3、4月)
落涙百千行 (涙を落とす百、千行)
万事皆如夢 (万事、みな夢の如し)
時々仰彼蒼 (時どき青い空を仰ぐ) |
【日露戦役忠霊塔】 |
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第16聯隊は、旅順攻防戦等に参加。
戦病没者7千500余名 |
【シベリヤ出兵戦病没者残骨灰埋葬碑】 |
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大正7年8月、「尼港事件」が発生し、急きょシベリヤに造園のために派遣された。極寒の地で戦いながら各地の治安維持にあたり、ゲリラを掃討して任務を果たしたが、その間、70余名の犠牲者を出した。
その犠牲者慰霊する碑
細部不明 |
【合同忠霊塔】 |
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満州事変以降、尊い犠牲者が激増し、「陸軍墓地」では埋葬できなくなり、合同忠霊塔を建立してその霊を弔った。 |
【ガダルカナル島戰記念碑】 |
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碑文
太平洋戦争の命運を賭した激戦の島ガダルカナル この碑は旧新発田聯隊が凄惨苛烈餓鬼と悪疫の中に郷土と県人の栄光を荷いつつ戦い遂に広安聯隊長以下全滅した尊い記念であります。
ここに駐日英国大使館を始め内外関係者多数の好意とご協力により伝統ある越佐健児の勇戦敢闘をしのび併せてその冥福と平和への祈願をこめ特にガ島の石に刻み想い出深い菖蒲城址に建立いたしました。
昭和37年4月22日
ガダルカナル島戦記念碑建設期生会
裏面に安置:昭和45年ガ島遺骨収集の祭、ルンガ島より持ち帰った貝 |
【慰霊平和塔:ビルマ従軍】 |
(通称:パゴダの塔)
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慰霊平和塔建立趣意
大東亜戦争最西端の地ビルマ方面におけるわが歩兵第16聯隊の行動は、昭和18年12月31日マライより侵攻を開始し、昭和20年7月ビルマより転進に至るまでの作戦、並びに南部仏領印度シナの防衛であった。
特に雲南作戦においてはシナ軍、イラワジ河畔においては英印軍よ対峙し惨烈その極に達する攻防戦を展開した。
わが連隊はさきにガダルカナル島戰に広安寿郎連隊長以下全滅に等しい犠牲をうけたがさらに堺吉嗣連隊長以下の、精鋭をもって再編成されマライ半島を経て進撃をした。
峻険悪路ヒマラヤ山系の雲南山脈はシナ軍の精鋭と共に行く手をはばみ強靭果敢国軍の精鋭とうたわれた越佐健二の死闘は地獄図のごとく将兵みな阿修羅となって昼夜の別なく襲撃を繰り返した。
この間、堺連隊長は負傷し将校以下多数の死傷者を生じ新たに井之上晴蔵連隊長を迎え青葉兵団の主力となった。次いで、イラワジ河畔の戦闘においては英印軍の膨大な物量を頼む円筒形陣地戦法による作戦に対し、まさに肉弾をも ってあるいは夜間攻撃を繰り返し相手の心胆を寒からしめた。
担担たる葺の平原は空からの攻撃に不利で、
多数の将兵は砲空爆のためあるいは戦車のわだちに葺の葉を血に染めたおれて行った。
わが連隊は28軍第33軍及び第15軍等常にビルマ方面軍の重要方面に配属せられ輝しい武勲をたて多くの感謝状賞詞を受けたが 終始われに十倍二十倍に達する優勢なる相手と戦I損害も多く、かくしてビルマの山野に血に染めた戦友の死かぱねも井之上連隊長以下二千余柱に達した。
この塔は戦後25年生還したわれら戦友が自ら集い浄財を出し合って建立したもので仏教の国ビルマの象徴であるパゴダに型どり、これを通じ亡き英霊を故山に迎えその冥福を祈りながく後世に平和を希わんとするものである。
この真情は、必ずや英霊の照覧するところとなるであろう。
子代八千代すめらを国の榮をこそ 誓いて生よむ友のみる方に
荒廃した国土の中から立ち上がり奇跡とまがうか悪鬼的な繁栄を成し遂げた日本の姿は、世界の視聴のまどである。
この誇りと喜びは国民の等しく享受すべきはもとよりであるが、山野に散った戦友の死を無にする事なきを誓いそのせめてもの償いに国土再興を胸裏に期した生存者われらにとっては感慨ことにひとしおである。
歩兵第16聯隊と由緒深い菖蒲城址の一角に立つ慰霊平和塔は、幾星霜にわたって盤石に堅く在天の英霊の降鑑し依帰するところならんことを祈る
昭和45年8月16日
歩兵第16聯隊あやめ会 建立
*周囲に戦没者御芳名刻印 |
【歩兵第16聯隊軍旗奉焼之碑】 |
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軍旗は、聯隊の協力同心の象徴
平成22年8月 有志が建立 |
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