陸軍墓地参拝記録
高田陸軍墓地(忠霊塔)(新潟県)
所在地
 新潟県上越市本城町8 高田公園

沿革(現地案内板)
 この忠霊塔は、国家や君主のために忠義や忠誠を持って明治以降の戦争に従事し、戦没された方々の霊を慰め、その功績を称え、顕彰するための象徴として建立されたものであります。
 明治新政府の誕生以降、帝国在郷軍人会が主体となり、忠魂碑が各地に建設されました。昭和期に入り日中戦争が激化すると、昭和14年1月、内務省は各地に納骨施設を伴う大きな忠霊塔の建設の許可を出しました。
 さらに同年7月に大日本帝国陸軍の強い支援を受けて「大日本忠靈顕彰会」が設立され、各地に忠霊塔が建設されるようになりました。
 高田市(当時)は、かねてより忠霊塔の建設を要望していましたが、昭和17年2月に至ってようやく第2師団(仙台)より許可があり、陸軍第13師団騎兵連隊跡の現在地への建設が決まりました。経費総額は7万5千円(内訳 軍部負担5万3千円、民間負担・寄附2万2千円)でした。工事は師団直営で行われましたが、整地作業は高田市長を奉仕隊長とする市民ら延べ5万人余りの勤労奉仕によるものでした。(市外、遠くは中越地区からも参加)
 忠霊塔は、市民の多くの奉仕作業により、昭和18年12月23日(18日説もあり)に落成。同23日、英霊の遷座式が執り行われ、5千3百余柱が合祀されました。
 翌、昭和19年4月、完成となった忠霊塔において、招魂祭が挙行されました。招魂祭は、その後上越市戦没者追悼慰霊祭と名を変え、高田連合遺族会らによって現在に引き継がれております。
 なお、金谷山にあった日露戦役戦死者碑と満州事変戦没者合同墓碑、旧高田城本丸の偕行社裏にあった二市八郷の忠靈碑もここに移されました。
  平成23年3月
   高田連合遺族会
【高田忠霊塔標識・入口付近
【忠魂霊】
 
【忠靈顕彰之碑】 
   洋の東西を問わず その主義思想の如何に拘らず 一朝有事の際一身一家を顧みず 国難に殉ずることは 国民最高の道徳とするところである
 然るに大東亜戦争に敗れて以来わが国民は戦争を憎むの余り 曽て国難に際して率先これに殉じた人々の霊を弔うことを怠るやの風潮無きにしもあらず  明治戊辰の戦争以来幾多の英霊を祀った由緒ある高田忠霊塔も天颫に咆える松柏の声とともに恭愁の感宗搏つものがある
 この度同感の士と相謀り その浄財を得て忠靈顕彰の碑を建てた 行路の諸士よ 訪れてその霊を慰め給え 
【横から見た忠霊塔】
 【碑群】
 【忠魂碑】
 昭和3年3月
   高田聯隊区管内一市八郷共同建立
【日露戦役忠死者】
  御英霊 11柱 (陸軍10柱 海軍1柱)
 御芳名刻印 

 明治44年4月
  新潟県中頚城郡高城村 建立

* 海軍大将 東郷平八郎 書
【忠魂碑】
   日露戦役における戦没者の慰霊顕彰
  戦死者:9柱
  傷死者:9柱
  病死者:1柱

 明治39年5月
  高田尚武会 建立 
 【忠魂碑】
   西伯利亜出征戦死者の慰霊顕彰

(裏面)
 大正9年4月26日 於 チエルオフスキー戦闘
   陸軍歩兵1等兵 斉藤 和平治
 
  同年 5月1日 同
 陸軍歩兵上等兵 近藤 金之助

  同年 4月8日  於 ベクンミセーヲ
 陸軍軍属     埜崎 寅次

 昭和5年11月3日
  高田市尚武会 帝国在郷軍人会高田市分会
【戦没馬を慰む】
   明治の初年古昔の制を改め軍団を設ける?てより 昭和20年8月終戦を迎えるまで幾多の戦役に従い 野戦に斃れ帰らざる百六十万頭に及ぶ軍馬の霊を慰むる一端として 上越の三市三郡の有志の主唱により主催団体をはじめ多くの方々より浄財を得 油脂書ある騎兵第十七聯隊跡に慰霊塔を建立し
安らかな眠りと永遠の平和を願う
 主催団体
  軍恩連盟高田連合会 同上越総連合会 同新井市連合会
  同糸魚川市連合会 傷痍軍人会 遺族会 郷友会 歩30戦友会
  歩58戦友会 独山砲1戦友会 山砲19戦友会 輜重戦友会

 昭和五十七年七月
  戦没軍馬慰霊塔建立委員会
軍人墓地
   
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