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高崎陸軍墓地(群馬県) |
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所在地
群馬県高崎市町49 龍廣寺
沿革
*高崎陸軍墓地の公式記録
・戦時中の陸軍省の調査:宇都宮師団が管理
・昭和21年の大蔵省の調査:951坪
・昭和37年の厚生省の調査:昭和27年寺院へ払い下げ、祭祀毎年4月
*主要部隊
歩兵第15聯隊
*パラオ会が
・毎年4月、慰霊祭を実施している。
昭和48年は、納骨供養塔の開眼供養実施
・8月15日は清掃参拝実施。県知事、市長、市議会議長頭が参拝
護国神社参拝後墓地にて慰霊行事を実施している。
*写真「手前が個人墓碑、奥に忠魂碑台」 |
「龍廣寺新墓地由来碑」:山門から入って左側墓地入口内に建立(陸軍墓地の手前は一般墓地)
當浄域は 昭和27年1月26日恰も曹洞開祖永平道元大禅師御誕生の記念すべき日を以て従前の陸軍省次いで大蔵省の主管を離れ ここ竜廣寺の墓地としてその所有に帰せしものなり。
思うに當墓地は旧称「陸軍墓地」として幾多護国奉公の諸英霊の顕彰の地であり永眠のちなり。
時の住職謙光大和尚これが要請に応じて所謂高崎十景の一たるこの景勝の地を陸軍墓地として寄贈せり。爾来斯かる縁故を以て歴代住職これが慰霊に遺憾なきを期し奉仕来れり。
昭和20年8月敗戦に依る陸軍の消滅とともにこの浄域をそのまま放置すれば荒廃の憂いあるを以て 新主管者たる大蔵省関東財務局より現住職以下関係者の物心の喜捨を以て払い下げを受け塋域としての整備に任じ 更に守護の念を新たにせり 冀くは参拝の各位思いを往時に馳せ将来に及ぼし報謝の至心を以て一握りの香華となし各々英霊墓前に供え禮拝合掌以て冥福を資助し愈々我が祖国恢興の決意を堅固にされんことを。
昭和27年春彼岸
高崎山 竜廣寺 |
【左側個人墓碑:明治時代が多い】
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【右側個人墓碑:昭和時代が多い】
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*左側に6列165柱、右側に5列90柱
*兵卒の碑:約17㎝×約16㎝ 高さ約70㎝ (陸軍埋葬規則より稍大き目)
*階級氏名のほか、本人の出生地、親の氏名、経歴、歿年月日等が刻印されている |
【慰霊碑】 |
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左側の碑から
*明治二十七八年戦役、明治三十七八年戦役 戦死病没者之碑
*満州事変 忠霊之碑
*支那事変・大東亜戦争 忠霊碑
*納骨供養塔(パラオ戦没者) |
【明治二十七八年戦役、明治三十七八年戦役 戦死病没者之碑】 |
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・明治39ンrン7月27日 建立
・日清、日露戦役における戦死、病没者の慰霊顕彰
*揮毫なし
*その他細部不明し |
【満州事変 忠霊之碑】 |
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・昭和8年3月 建立
・満州事変における戦没者の慰霊顕彰
*陸軍大臣 荒木貞夫 書
*その他細部不明 |
【支那事変・大東亜戦争 忠霊碑】 |
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・昭和20年8月8日 建立 (素朴な疑問:この時期に建立するだろうか?)
・宇都宮師管区司令官 ?亀治 書
*その他細部不明 |
【納骨供養塔(五輪塔)】 |
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*「碑文」
過ぐる太平洋戦争中に散華された本県出身戦没者は3万9千余柱 このたびパラオ諸島より帰還された英霊の納骨供養に際してこれを建てその霊を慰める
昭和48年4月15日
群馬県パラオ会 |
【元ロシア人兵士の墓】 |
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「説明板」高崎市指定史跡
日露戦役においては、数多くのロシア軍兵士が捕虜となり、国内各地に収容された。高崎においても龍廣寺を初めとする市内の寺院などに5百数十名の捕虜が収容された。そのうち傷病兵だったニコライ・トカチューク(26才)、ステパン・シュレノーク(22)、サムプソン・メルニチュンコ(29才)の三兵士は遼陽のかいなく死去したので、陸軍墓地であったこの地に葬られた。その後第2次大戦中はこれが破壊されるおそれもあり、一時は地下に埋めて隠されたこともあったが、昭和51年に龍廣寺住職、日ソ親善協会高崎支部など関係者の協力により現状のように改修された。
西洋式の3基の墓碑は台上に東向きに安置され、墓石面には上部にロシア語で銘文、中央に大きな十字架、その左右に日本語で兵士の所属部隊、階級、年令、没年月日が刻まれている。
本史跡は、明治以来高崎第15聯隊が所在したことを象徴する貴重な文化財である。
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