陸軍墓地参拝記録
徳島縣忠霊塔(陸軍墓地)
所在地
 徳島県徳島市加茂名町 (眉山中腹・西部公園)
沿革
「由来碑」
 昔 金殿庵という小さい古い庵があr その跡地を明治の初年から徳島歩兵第62聯隊が陸軍墓地として使用していました。
 昭和14年12月 徳島聯隊区司令官森本大佐と37代目徳島県知事清水良策氏が地鎮祭をおこないました 小さい山一つを崩して広場を作ったのです
 参道千米と土地は 全部篤志家の寄贈です 機械工具はなにひとつなく 県民一丸となって功労奉仕 人員17万2千人役 特命を受け指揮されていたのは増田薫氏です(後にビルマで戦死 鮎喰町1丁目 工兵隊出身) 当時の高等生は一つ持ちの石 小学生は白玉荒砂利を道とは言えないような旧道を運んでくれました 奉仕人員外です 総面積は1万5千8百4坪です 此の地点より22米登ったところに立派な忠霊塔と広場があります 塔の中で一番古い戦没者は陸軍二等兵磯部勝三郎氏で明治10年6月3日戦死と記されていますが住所は不明です
 県内戦没者3万4千有余柱 戦時中は軍司令部 加茂名在郷軍人会会長吉田存一氏(名東町 軍に協力)が御護持していました 吉田氏が応召された後は 庄町町内会長吉田嘉市氏(庄町5丁目 印刷業 昭和46年11月死亡)が御守しました 昭和18年7月より神田豊稔氏が軍直の雇で墓地の監視にあたりました(神田氏は日露戦役の馬丁であったとのこと 昭和56年96歳で死亡)
 終戦となるや 進駐軍ロバート部隊長より即刻取り壊しを依頼された吉田嘉市氏は「私は軍籍が有りません 一町民が御護申上げているのだからこのまま置いて下さい」とお願いしました それなら黙認しようということで 日本全国で数少ない立派な塔が無傷で残りました
 昭和27年4月1日より徳島市が西部公園として使用しています
 昭和46年 徳島市加茂名軍恩会が主体で徳島県忠霊塔守ろう会が発足 初代会長は 井原清吉氏(蔵本元町 昭和55年10月故人となる)
 等忠霊塔守ろう会は宗教団体では有りません 地区の旧軍籍を持つ者が主体の任意団体です。
 守ろう会は 毎年春に戦没者の御冥福を御祈りして法要を行い 8月15日は戦没者を偲び墓参大会を行っています 西部公園には保勝会が庄内商工会などでつくられています
 昭和17年10月27日に完成した立派な忠霊塔が永遠に平和のために大切に保管されることを願っています。
    平成元年11月吉日   徳島県忠霊塔守ろう会
【墓苑の概要】
【忠霊塔:建設年月日】  【忠霊塔:正面】 【忠霊塔:側面】
【由来碑】 【手水舎:手洗盤寄付者名碑】 【塔の出入口】
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【石標:西部公園 徳島県忠霊塔入口】 【忠霊塔:入口 遙拝所】 【忠霊塔:標識と石段】
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【忠霊顕彰記念碑】 【顕彰記念碑標識】 【由来】
【遙拝所】 【日本のさくら名所100選 西部公園】 【桐の水】【日本のさくら名所100選 西部公園】
 墓地は、徳島の名勝眉山から西に連なる山麓の西寄り台地、眉山の山頂から約4km、眼下に歩兵第62聯隊、同43聯隊の兵舎、陸軍病院、練兵場など陸軍施設を見下ろす位置、今の西部公園にありました。
 昭和14年5月の徳島県忠霊塔顕彰会趣意書に「支那事変に際しての戦死将兵の増加に、墓地の拡大は限界且つ現在の墓地への参拝は急峻・悪路で登坂に難が多い」と記述がある。
 徳島市公園緑地課の資料に、「西部公園は、昭和27年4月に徳島市が旧陸軍が戦没者の墓地として管理していた眉山中腹の台地を借り受けて公園に整備したものと書かれている。
 徳島陸軍墓地では忠霊塔工事が完了した時に旧墓地の遺骨は忠霊塔に還されm跡は整備されて広場になったのでしょう。現在は旧墓地とされるものはない。

 桜の名所に相応しく整備された広場から忠霊塔の玉垣の手前左手に手水舎があり、忠霊塔まで約100段の階段があります。階段の上り口手前に遙拝所献花台が設けられている。 高齢化した御遺族や参拝者にとって標高差約22メートル、急な石段を100段以上登って参拝するのは大変で大きな課題であり、遙拝所が階段の手前に設けられたのでしょう。
(偕行社記事から抜粋)

参考ホームページ:徳島県忠霊塔を守ろう(徳島の保守)
【ドイツ兵の墓】
【案内板】 【ドイツ兵の墓】 「墓碑」
「ドイツ兵の墓:ここに神の手に休らう」
海軍砲兵 ジアン・ヘルムート
1895年3月11日コーブレンツ近郊マイエンにて出生 1917年9月7日 徳島戦争捕虜収容中に死亡
 安らかに眠りたまえ

「海軍水兵 エーリヒ・リーデル
1895年4月21日プラウエンーロイザ、フォークラアント地方にて出生 1917年12月6日 徳島戦争捕虜収容中に死亡
 安らかに眠りたまえ

「墓誌」
 ここに眠る二人の兵は、第1次大戦時、青島(中国山東省)攻防戦の俘虜として徳島に送られ、入院死亡、1942年10月、忠霊塔竣工の祭、日独同盟の象徴として、この地に移葬された。
 第2次大戦後、地獄のシベリヤ抑留中、望郷に焦心した帰還兵が、雑草に囲まれただけの此の墓前に立ち・・・彼等も夕陽落ちる国方の山並と、流れる雲に、同じ思いにかられながら果てし哀れを思い、1989年から多くの人々の支援により、囲障を作り、墓碑を建て、人間の尊厳と日独愛の交流の証を形づくることができた。
 その後、墓参に来られたドイツ人彫刻家ペーター・クッシェル氏から「悲しみを超えて」の彫像寄進を受け、再び多数の芳志を得て全面改装を行い、重厚な修景を作るを得た。
 日本の桜百選に選ばれたこの公園に、更に人間愛と友好の花を咲かせ、永久の平和を祈りたい。
  1997年3月  世話人代表 小林 嘉吉
【悲しみを超えて】 【墓誌】
軍人墓地
   
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