和歌山県忠霊塔(和歌山陸軍墓地)(和歌山県) | |||||
所在地 和歌山県和歌山市西高松1丁目10-23 沿革 (和歌山県忠霊塔護持会のチラシより) 昭和半世紀の歴史を激動させたのは忌わしい戦争であった。幾多の尊い人命が失われ、太平洋戦争を通じて県出身の戦死者は2万5千を超える。戦後70年、戦争体験は風化しつつあり、戦後はおわったといわれるが、悲惨な戦争は決して二度と繰り返してはならない。 太平洋戦争は日本の敗戦に終わり、日本の歴史を大きく塗りかえることになった。長い戦争であっただけに、その犠牲者も多かった。当時、和歌山市今福に陸軍墓地(現、忠霊塔敷地)があった。明治42年、歩兵第61聯隊が和歌山市を衛戍地と定めて以来、在営中に死亡した将兵を葬っていたが、昭和12年、支那事変が始まり、戦線は次第に拡大するにともなって相当数の犠牲を予想した軍部(第4師団)では、これら犠牲者の遺骨を収容し顕彰するため、同墓地内に忠霊塔の建設を企図し、資金の調達などを県当局に対して依頼がなされた。県は和歌山県仏教会に、その業務を委任することとなった。爾来3年全仏教会会員が一丸となって、自らの拠金はもとより、寒暑をいとわず托鉢に精進した。また、一般県民からの拠金も相次ぎ、ついに建設資金を超えるまでになった。 昭和15年9月、忠霊塔建設の工を起した。まず、陸軍墓地に埋葬されている英霊を万性寺に改葬した。さらに外苑広場の建設を計画し、県知事を委員長とする「忠霊塔外苑建設期成会」を結成した。これら二つの工事が並行して施工されたが、その整地作業は中部第24部隊、県仏教会、附近の小中学生、その他各種団体の勤労奉仕によるものであった。 建設工事は順調に進み、翌16年1月、その工を完了し、西本願寺鷺の森別院、万性寺安置の英霊を塔内に納めたうえ献納式が行なわれた。式は忠霊塔及び拡張敷地を県仏教会より陸軍大臣に献納する形をとり、ここに忠霊塔の完成をみた。一方、外苑広場建設工事も由良浅次郎氏をはじめ県下有志の浄財により、敷地の買収、整地、樹木の植栽などの諸施設も整備されて、同年5月、竣工式が盛大に挙行された。その後、和歌山市当局は国道42号線から忠霊塔外苑入口まで延長250mの参道を開設、名実ともに全国に誇りうる忠霊塔の出現をみることとなった。 忠霊塔の完成後は、塔及びその敷地は陸軍省の所管、外苑敷地は県の所管とし、維持管理については忠霊塔奉仕委員会が、招魂祭と日常の祭事は県仏教会がそれぞれ担当することとした。 昭和20年8月、戦争終結により情勢は一変し、委員会は解散して事実上の建設者であり、経営者である県仏教会が維持管理にあたることになった。同22年4月、県有であった外苑敷地も県仏教会へ移管された。また、軍国主義復活の恐れありとの批判もあったから、平和塔と改称(注:現在は忠霊塔に復称)することにより撤去という最悪の事態は免れた。 同24年、外苑敷地の一部を大蔵省に譲渡し、それによって得た資金を財団資金として財団法人和歌山県平和塔護持会(忠:現在は忠霊塔護持会)を設立。塔及び附属施設の維持管理と弔祭を行なうこととした。 同54年10月、戦争遺品、資料などを保存展示するための資料館や祭典実施、遺族の集会などの用に供するため平和会館建設奉賛会を結成して、広く浄財を募り、56年6月、平和会館が完成、一階を平和祈念資料館として一般公開し、二階には会議室大小3室を設け、一般の利用に供している。 忠霊塔内に37,500余の英霊を合祀 1月1日 年始慰霊祭法要。 5月5日 県仏教会員の奉仕による追悼法要。 8月17日 みたま祭。 10月5日 秋季追悼法要。 敷地総面積 5,763㎡(1,746坪)、忠霊塔の高さ 約11.3m *参考 ① 和歌山県の陸軍墓地 和歌山県には、歩兵第61聯隊の和歌山陸軍墓地(本和歌山県忠霊塔)と野戦重砲兵聯隊の深山(みやま)陸軍墓地(未参拝)がある。 忠霊塔は、和歌山市中心部よりやや南西、市民墓地の東隣にあり、(財)和歌山県忠霊塔護持会により維持管理されているが、深山陸軍墓地は知る人も少なく、和歌山市管財課により草刈りや倒木処理等はされているが、訪れる人も殆どなく弔祭も皆無で前者とは対照的である。 ② 従来の墓碑 忠霊塔建設の為、一時的に万生寺に改葬したが、従来の墓碑は塔の台石として使用され、または遺族の希望によって引き渡されたようであるが、その殆どは現在も万生寺の墓地入口右側に整然と並んでいると言う。将校碑:10基、下士官・兵卒碑:91基 |
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【墓地の概要】 | |||||
【忠霊塔】 | |||||
【国道からの入口交差点標識】 | 【全景:入口付近】 | 【正面:忠霊塔、左端:平和祈念資料館、右:石燈籠】 | |||
【入口の石燈籠】 | 【注意板:ある意味で案内板】 | 【忠霊塔横の石灯籠】 | |||
功勲廣大 : 道徳無量 (昭和18年 大日本国防婦人会和歌山地方本部、支部寄進) |
振武八紘 : 遺名萬世 (昭和18年2月 和歌山縣紡績聯合會) |
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【左横から】 | 【背面】 | 【正面:燭台と香炉】 | |||
【合葬碑】 | |||||
(忠霊塔建立の際、旧陸軍墓地の英霊を特に合葬したようだ?) | |||||
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【弥陀三尊像:ビルマ慰霊碑】 | |||||
{碑文標) 茲に第二次世界大戦ビルマ戦線で散華された戦歿者並びに同じ運命を辿られし連合軍戦歿者のために生き長らえたる我等発願して今日の平和の礎となられし諸士を偲び感謝し弥陀三尊を建立す 願はくはかかる悲惨なる戦争の無きことを祈願しつつ大慈大悲の大願力に救はれ永遠の幸を得んことを ビルマ派遣 歩兵第61連隊 貫徹兵団 日赤第490救護班 其他関係諸部隊 昭和55年6月吉日建立(1980) |
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*(台座裏面の碑文) ビルマ戦戦歿者の英霊並びに万国の英霊を供養し二度とかかる悲惨な戦争の無き様世界平和を祈願し之を建立す *(碑文標裏面) 此の御像は千葉県松戸市五番六実善光寺に建立されている仏陀禅那辦栄聖者御作の弥陀三尊を坂口西行名匠が模写彫刻されたものである |
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【母子像:幼児を抱いた母親の像】 | |||||
「碑文」 建立のことば 全結成20周年を迎えるにあたり、幼児を抱え強く生きぬいた、母の姿を刻み今もなお社会の一隅に苦斗する、父なき家の母と子に無言の励ましを、おくると共に永遠不滅の母の愛を讃え母なればこその感謝の心をあつめて、この像をつくる。 昭和45年5月16日 社団法人 和歌山県連合未亡人会 母子像賛歌 保田 勢以 母子像彫刻 柳野 節雄 母子像移築 平成10年12月 |
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【陸軍用地境界石標、兵器ハ命碑】 | 【掃海艇の錨鎖・内火艇の錨・米海軍使用の機雷】 | ||||
(細部不明) |
(昭和56年8月海上自衛隊) |
(MK25型米海軍使用の機雷) |
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【和歌山県平和祈念資料館】 | |||||
場所 和歌山県和歌山市西高松1丁目10-23 和歌山県忠霊塔境域内 概要 *閲覧 無料 *利用時間 9:00~16:00 休館日:月曜日、12月26日~1月5日 *1F 平和祈念資料館、1F 会議室 展示の内容 郷土部隊である歩兵第61聯隊、歩兵第218聯隊等、和歌山県にゆかりのある陸海軍関係資料、英霊の御遺品、遺族からの寄贈品等多数 |
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【全景】 | 【玄関】 | 【栞】 | |||
【展示物】 | |||||