記念館 
八甲田山雪中行軍遭難資料館 (青森)
場所
 青森県青森市幸畑字阿倍野163-4   (青森駅から幸畑団地方面行きバス 約30分 幸畑墓苑バス停下車))
概要
 約100年ほど前に起きた「八甲田山雪中行軍遭難事件を歴史の記憶にとどめ、その教訓を次世代に語り継ぐ。新資料館は2004年7月にオープン。

* 観覧料金:一般 260円、 大学・高校生 130円、 70歳以上と中学生以下 無料
* 開館時間:4~10月 9:00~18:00  11~3月 9:00~16:30
* 休館日: 12/31、1/1、2月の第4水・木曜日
青森歩兵第五聯隊 雪中行軍の概要 (史料館の栞から)
*要旨
 明治35年、緊迫する日露関係を背景に「青森歩兵第5聯隊」は八戸平野に侵入した敵を想定し、青森から八甲田山を越えて三本木へ進軍できるか否かの調査のため雪中行軍を計画した。計画では、青森から田代までの一泊行軍とし、田代に達することが出来ない場合を考慮し雪中露営の準備もされていた。
 しかし、悪天候に阻まれ、総勢210名の隊員のうち199名の犠牲者を出す惨劇となった。

*第1日目 1月23日
  第五連隊の部隊編成は、神成中隊長以下、伊藤中尉、鈴木少尉、大橋中尉、水野中尉らの四小隊に、先頭のカンジキ隊と中野中尉の特別小隊、編成外(大隊本部)として山 口少佐、興津大尉、倉石大尉、永井軍医らの総勢210名が配置された。
 午前6時55分営門を出発、田代へ向け行進を開始する。田茂木野辺りから山坂が多く運搬隊(ソリ隊)の運行が困難となる。 小休止を繰り返し午前11時半、小峠に到着。 このころから天候が急変しだす。 午後4時頃馬立場に到着。運搬隊 が遅れているため二小隊に応援を命じ、さらに、15名の設営隊を編成し田代へ 向かわせた。
 しかし、猛吹雪により設営隊が道に迷い、いつのまにか隊列の最後尾に付き、大混乱に陥った。そして午後9時やむな<露営を決定した 。

*第2日目 1月24日
 夜半を過ぎて風雪は激しさを増し、気温はマイナス20℃を下回った。 山口少佐は帰営を決定し、午前5時出発予定であったが、一刻でも早くと午前2 半露営地を発つ。一時間で道に迷い鳴沢渓谷に入る。 一旦、露営地に引き返 そうとするが方向を誤って駒込川の本流にでてしまう。
 猛吹雪の中行進を続 け午後5時頃小さな窪地に露営することとなったが、窪地はあまりにも小さ く、消耗した体力を空腹、睡魔、寒気と猛吹雪が容赦なく攻め昏倒者が続 出。
 この日の行軍で実に1/3の兵士を失った。

*第3日目 1月25日
 午前3時頃人員を点検。 1/3は既に倒れ、1/3は凍傷で運動の自由を失い、残り 1/3は比較的健全であった。 一行は鳴沢渓谷を下っていくが依然として吹き荒れる吹雪によって何度も迷い午前5時半頃、前夜の露営地に辿り着く。 
 午前7時頃風雪が少し止んだため、斥候志願者12名を募り、渡辺軍曹と高橋伍長の二隊に 分け、田茂木野方向へのルート開拓と救援の要請、連隊への報告を命じ発たせた。
 午前11時半頃高橋伍長が戻り帰路を発見したことを報告。高橋伍長を先頭に、 6,70名で出発し午後3時頃馬立場に到着したが、途中落伍者が続出、一行は散り散リとなる。
 午後5時、露営を決定するが食料も燃料も全くなく、飢えと寒さに瀕 死の状態であった。

*第4日目 1月26日
 午前1時頃の人員点検では30名、うち比較的元気なのはわずか10数名たった。  一行は田茂木野まで8キロ程度と予想し前進することを決定する。
 午前11時頃 天候が悪化、神成大尉と倉石大尉は二手に分かれ生存を賭けることにした。  倉石大尉の一行は7,8名となって駒込川の渓谷に足を踏み入れ、流れに沿っ て下るも青岩付近で両岸断崖に阻まれここを死に場所と決める。  神成大尉の一行6,7名は幸いにも帰路を発見したが、大滝平で限界に達し全 員が倒れた。
 この中でのちに後藤房之介伍長が仮死状態で救援隊に発見される こととなる。

*救援隊の派遣
 23日、連隊本部は、行軍隊は無事田代に到着したと考えていた。
 23日夜半、 稀に見る大寒波となったため40名を田茂木野に出迎えさせたが、消息を得るこ とはできなかった。
 25日、午後10時になっても帰還しないため、連隊長は救援 隊の派遣を決定する。
 26日午前5時45分救援隊が出発。腰までの雪を踏み分け て進むため思うように進まず、露営の準備がなかったため田茂木野に戻ること とした。
 27日午前6時頃田茂木のを出発。午前10時大滝平を経過したところで 雪中に佇立する一兵士を発見。後藤房之介伍長であった。救急処置により約10 分後に蘇生、一行が後方に散在していることを告げた。しかし救援隊中からも 卒倒者が出る状況であったため、田茂木野に引き上げることとした。
 救援隊からの第一報を受けた連隊長は午後2時半、増援隊を編成し出発を命 じ、一方では捜索事業の計画に着手した。
 三神救援隊長の報告を受け捜索救護 の計画を固め、翌28日から大規模な捜索を開始した。  捜索は長期に渡り困難を極めた。最後の遺体が収容されたのは実に5月28日 であった。大掛かりな救護捜索により17名の生存者と多くの遺体が収容された。
 奇跡的に生還した17名のうち四肢健全なのは3人、他はいずれも重い凍傷 にかかリ手術を受けたが入院治療の経過不良でうち6名が死去した。
関連本
*八甲田山死の彷徨
   新田次郎 著  新潮社  昭和52年 第57刷発行  770円

*八甲田山から還ってきた男~雪中行軍隊長・福島大尉の生涯~
   高木勉 著  文春文庫  1991年第5刷  400円
【展示内容】
【資料館の栞】 【入場券】
【後藤伍長銅像(レプリカ)】 【史料館全景】 【資料情報検索コーナー】】
【説明板】(例) 【行軍の隊形】 【装備の比較】
【銅像除幕式記念絵葉書】 【埋骨式招待券】 【吊魂案内状と案内図】
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ (隣接の陸軍墓地内の慰霊碑等)~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
【嗚ゝ陸奥の吹雪:60周年記念碑】 【遭難百周年八甲田山雪中行軍記念】 【生存者合同墓碑(11名):60周年記念】

青森市長:昭和37年6月9日建立
台石:歩兵第五聯隊兵舎基礎石使用

平成14年6月23日建立

昭和37年6月9日建立
【八甲田山遭難の地】
【案内板】 【歩兵第五聯隊第二大隊遭難記念碑:後藤伍長銅像】
「碑文」 (台座は漢字のみで読みにくいので東八甲田観光開発協議会が現代語に直した説明板有り」
 軍隊の野外における演習は、主とするところ、岨嶮を跋し、もって戦術を講じ、寒暑を冒し、もって筋骨を練るにあり。
 この如くならざれば、戦時の用に供するに足らず。青森衛戊の如き毎年雪中行軍の挙あるは、其の一なり。
 去歳1月23日、第2大隊将卒200余人田代に赴く。たまたま大風雪3昼夜に連なり、全退路を失い飢凍して斃者相次ぐ。営中の将士その期を過ぐるも還らざるを怪しみ、卒を発してこれを遂う。天地陰晦、漠として踪跡を知らず。一人雪中に凝立し有るを見る。近づけば伍長後藤某なり、始めて、その隊の動静を詳にするを得たり。
 遂に大いに捜索を行い、掘りて大尉神成文吉以下199名の屍を得たり。その幸いにして生を得る者、大隊長少佐山口鋠等10有余人のみ、事、皇上に聞す、震悼して、侍臣を特派せられ弔慰優渥なり。また有司に勅して厚くその家恤まる。
 中外の官民亦貲?余万を損て、もって賑恤の資となす。死者また瞑すべし。
 然りといえども均しく之の死するや、砲煙弾雨の下に斃れずして??雪虐の間に殞す。?に悼まざらんや、是に?い 有志の諸将校と相諮り碑を八甲田山麓馬立場の邱に建て、もってその事を紀し、且つ、後日行軍する者の標識となすという。
 明治36年 歳は癸卯に在り6月
   陸軍大将 寺内正毅 撰
【歩兵第五聯隊第二大隊遭難記念碑文】
(陸軍大臣陸軍中将 寺内正毅撰)
【雪中行軍遭難記念碑文】
(東八甲田観光開発協議会)
【歩兵第五聯隊第二大隊遭難記念碑】
(青森市指定文化財:八甲田山雪中行軍遭難後藤伍長銅像)
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