記念館 
満蒙開拓平和記念館(長野)
場所
 長野県下伊那郡阿智村駒場711-10

概要
 中国東北地方にかつて13年間だけ存在したぼろ市の国「満州国」。 ここに日本から約27万人の農業移民が渡って行きました。「満蒙開拓団」です。
 ”20町歩の地主になれる””満州は日本の生命線”―夢を抱いて渡った新天地でしたが、1945年8月9日、突然のソ連侵攻で満州は戦場と化し、開拓団の人たちは広野を逃げ迷います。終戦後も祖国に帰ることができず、難民収容所では飢えと寒さで大勢亡くなりました。
 日中双方に多くの犠牲を出した「満蒙開拓」とはいったい何だったのか。
 私たちはこの歴史を風化させることなく後世に伝えるため、その拠点として記念館をつくりました。
 戦争に導かれていく道筋を学び、人々の体験に耳を傾け、平和な社会とは何かを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
 (記念館の栞:ごあいさつ)

 【反対側から】
平屋で、あまり大きくはない。右奥が駐車場
 【正面】
バス亭から歩いたが、要所に看板があり迷うことはない。
2016年11月18日 天皇、皇后両陛下、「満蒙開拓平和記念館」を訪問 
 天皇、皇后両陛下は、元開拓団員だった80~90代の地元住民と懇談。

 同席した同館の寺沢秀文副館長によると、両陛下は熱心に多くの質問をされ、「詳しく知りたいという強いお気持ちが感じられました。皇后さまもかなり深く調べておられることが分かりました」。

 両陛下は「ご苦労されたのですね」と元開拓団員に声をかけられ、「この歴史を語り継いでほしいとの気持ちを述べられました」
 【展示の概要】
* 陸軍の玉砕・海軍の軍艦撃沈・特攻隊、広島・長崎への原爆投下、各地へ空襲等は話題になるが、この満蒙開拓団の事実は、残念ながら顧みられることの少ない悲劇である。先年、天皇陛下がご訪問になられるまで、この記念館が存在することも知らなかった。忸怩たる思いを深くか案じる。

* 慰霊参拝の旅をしている間に、各地に建立されている「拓友」「青少年義勇軍慰霊碑」等を本HPにも収録しているが、その全貌を初めて知った。

* 本記念館は、撮影禁止なので、展示風景の写真はありません。頂いた栞や資料等から「満蒙開拓団について記述します。

* ホームページ 「満蒙開拓平和記念館

* ブログ「プラットホーム」:満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴っています。

【展示室と各コーナーの概要】

① 序章 時代を知るタイムトンネル
 左画面は、日本が戦争に向う経緯を年表化。
 右画面は、満蒙開拓が国策として推進され、渡満の背景を資料化。
② 大陸へ 映画で見る満蒙開拓
 満州の風景と開拓団の人々の様子を当時の映像と写真で紹介。
③ 新天地満州 希望の大地
 住居の一部を再現。入植した地点を地図に表示。
 青少年義勇軍の送出、訓練所の様子。はがきの展示
④ 敗戦と逃避行 絶望の彷徨
 三石忠勇氏作の絵画、地図等により、逃避行や収容所生活を伝える。
⑤ 証言 それぞれの記憶
 経験者13名が語る記憶を文章化。(セミナールームで証言映像上映)
⑥ 引揚げ・再出発 失意の帰還
 1946年から始まる引き上げの様子。国内の再入植の苦労。
⑦ 望郷 山本慈昭と残留孤児
 残留孤児の実情。山本さんの献身的貢献。
⑧ 平和な未来へ 今、私たちができること
 満蒙開拓の歴史から何を学ぶのか。来館者からのメッセージ
⑨ cafeラタン  ⑩ セミナールーム
満蒙開拓について基礎事項(写真がないので展示の基本的事項)
◎ 満蒙開拓団
 「満州国」に送り出された農業移民。
 この地域をかつて日本は”満蒙”地域と呼んだ。「蒙」は内モンゴルの一部が含まれていたため。
 1836(昭和11年)年に「満州農業移民100万戸移住計画」という大量移民計画が国策となり、終戦までに日本全国から約27万人が渡って行った。
 貧しい農村部から村を挙げて送り出す”分村”や、複数の村が送り出す”分郷”開拓団があった。

◎ 逃避行と収容所生活
 終戦直前の8月9日、ソ連軍が満州へ侵攻。
 成人男性は軍に招集されており(根こそぎ動員)、開拓団に残されていた女、子供、老人たちの逃避行が始まる。日本人に抑圧され土地を追い出された満州の現地住民らの積年の恨みが開拓団や一般の日本人に向けられ、略奪や襲撃にあう。
 各地で集団自決なども起こり、さらに収容所生活の中、飢えと寒さで大勢亡くなる。開拓団約27万のうち8万人が命を落とした。

◎ 阿智郷開拓団
 旧会地村、伍和村、山本村で編成された開拓団。
 本隊は、昭和20年5月に渡って行った。満州の最も北東に位置する未開の原野で他地域との交流は殆どなかったという。ほどなくソ連の侵攻で逃避行を余儀なくされ、8月24日に佐渡開拓団跡で解団式を実施。100人近くがこの地で死亡。団員190人のうち帰国できたのは47人。

◎ 山本慈昭
 阿智村、長岳寺の元住職。
 阿智郷開拓団の現地国民学校の教員として請われ、妻と娘2人を伴い本隊と一緒に昭和20年に満州へ渡る。逃避行の後、シベリアへ抑留され1947(昭和22年)年に引揚げ。戦後は中国残留孤児の肉親捜しに奔走し、「残留孤児の父」と呼ばれる。1990年永眠。阿智村の名誉村民。

 ★映画「望郷の鐘」(満蒙開拓団の落日)主人公・・・平成29年10月13日(金)14:00 「なかのZERO 視聴覚ホール」にて上映予定。料金:1,000円
  ・みずからも満州で苛酷な体験をしながら、生涯を残留孤児たちの肉親捜しに捧げ、献身的な愛で支えた山本慈昭。その生涯をたどった感動の物語。
  ・「望郷の鐘」・・・山本慈昭さんが「長岳寺」の鐘に刻んだことば
    想い出はかくも悲しきものか 祈りをこめて 精一杯つけ 大陸に命をかけた同胞からに この鐘の音を送る 疾く瞑せよ
    日中友好手をつなぎ 共に誓って 悔を踏まじ 大陸に命をかけた同胞からに 夢美しく 望郷の鐘

◎ 中国残留孤児、残留婦人
 ソ連侵攻後の混乱の中、孤児になったり預けられたりして戦後中国人に育てられた日本人。そのうち満13歳以上だった女性を残留婦人と言う。
 1972年、日本と中国の国交正常化以降、本格的な身元調査が始まり帰国が進む。現在までに帰国したのは約6700人。
 
 【鎮魂】 


「碑文」(裏面)

 旧満州の地に眠るすべての御霊に捧ぐ
  1013年4月
   満蒙開拓平和記念館
平和友好
「碑文」(裏面)

 飯田日中友好協力会創立50周年記念
  2013年10月 建立

* 長野県知事 阿部守一 書
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