群馬県護国神社
 群馬県護国神社
フィリッピン方面戦没者慰霊顕彰碑
建立場所
 群馬県高崎市乗附町2000 群馬県護国神社

趣旨(英霊)
 比島方面郷土出身戦没将兵6429柱の慰霊顕彰

碑文
 この碑は太平洋戦争に於てフィリッピン方面で散華した同胞四十七万六千余柱のうち、群馬県関係者六千四百二十九柱の英霊を顕彰する慰霊の碑であります。大東亜戦争の天王山といわれた比島では、南方諸地域中、日本国でも、また群馬県でも最高の戦没者を出した一大決戦場でありました。
 顧みれば昭和十六年十二月十日、日本軍がルソン島リンガエン湾に上陸して以後、戦況が次第に苛烈となった。昭和十八年、十九年頃に内地より、臨時応召や現役兵編入等で郷土部隊の母体(軍旗)と共に派遣されずに数百名が一単位となり、高崎連隊から或いは宇都宮・水戸・千葉その他の各連隊を始め、海軍部隊諸基地や遠く朝鮮・満州・支那等の各現地部隊と共に続々と緊急南下され、途中台湾沖やバシー海峡等で敵潜水艦や空襲のため数千人が乗船したまま輸送船もろとも海中に消えた多くの将兵・軍属・従軍看護婦等を始め、昭和十九年十月レイテ島に米軍を迎撃して以来、遂に南方面の制海権と制空権を手中に納めた米軍は、総てに圧倒的優勢を誇る新鋭兵器・航空機・艦船等の絶対的物量を以て、ルソン島を始めミンダナオ島・ネグロス・セブ・ミンドロ・サマール・パラワン・パサイ・コレヒドール等の各島々に於て日本軍と対決した。特にレイテ・ルソン島等米軍との水際戦闘のその日から、各兵団諸部隊は肉弾斬込み戦を繰返し、山岳戦に至るまで悪戦苦闘し、全諸島に渡り将兵等は、ひたすら祖国日本を直接戦場にしてはならぬと胸に堅く誓い、悪条件の下爆弾を抱いて特別攻撃機となり、又は人間魚雷となって全機全員敵艦に体当りし、或いは人間爆弾となり、むらがる敵戦車に飛び込み、深山幽谷の地に或は南海の孤島に空に海に一塊の肉片も残さず散華、爆弾食料の補給全く途絶し、道なき熱帯のジャングルに分け入り、困難辛苦、飢餓と風雪にさらされ、勇戦奮闘むなしく、戦傷やマラリヤや赤痢等の悪疫に尊くも斃れ、或は自決、血を血で洗う鬼哭啾々たる戦場で激闘の末、最後の突撃を敢行して全員玉砕するなど全滅的運命となり遂に護國の神となられたが、戦争の結末は敗戦という烙印を押され総て無言の中に終了した。二度とこのような戦争を繰り返してはなりませんが、戦後二十有余年を過ぎた今日に至ってもこの戦没英霊を讃える事は充分でなく過して参りました。然し平和を完全に取り戻した現今、この尊い殉國の犠牲鬼神も泣く無言の戦没諸兄の武勲を顕彰し、御霊の御冥福を祈り、その勲功を永久に讃えるものであります。

 昭和四十六年三月二十一日
  フィリッピン方面戦没者慰霊顕彰碑袞竜委員会
   代表 群馬県フィリッピン会 比島方面戦没者遺族有志一同
   後援 群馬県遺族の会 群馬県軍恩連盟 群馬県郷友会 他有志一同
護国神社別慰霊碑

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